越後湯沢を後にして。
少し北上して南魚沼市へと。
到着したのは、
最上山 関興寺
駐車場から正面に回って。
総門
別名・黒門
令和元年に復興再建。
輪蔵
雲龍図🐉
境内を進みます。
おじゃまします😃
素敵な雰囲気です。
階段を上って左手、
経蔵
味噌作りの道具
本堂
こちらは臨済宗円覚寺派のお寺。
応永17年(1410)、上杉憲顕の子である覚翁祖伝が開基。
鎌倉公方足利氏、関東管領上杉氏などの庇護、上田長尾氏の帰依などにより、信濃・佐渡・能登・越中・越後五か国の末寺300ヶ所を支配したと伝えられる。
本堂にお邪魔したら、
関興寺の味噌なめたか
天正6年(1578)上杉謙信の没後、上杉景勝・景虎二子による家督相続争いの合戦(御館の乱)がおこり、景勝に縁の深かった関興寺は 景虎方の小田原北条軍に包囲され、 焼き討ちに。 総門・三門・仏殿・法堂・方丈・禅堂・塔頭7ヶ寺に及ぶ大伽藍は、ことごとく焼失。上杉氏より寄進された大般若経典六百巻を味噌桶の中に埋めて、火災から大切な経典を守りました。
すると近在の人々の間で 「関興寺の味噌は大切な経典を守った有難い味噌。ましてやその味噌の中に600巻もの経典が埋められたならば、さぞかし関興寺の味噌には経典のご利益・功徳があるに違いない」 とその味噌を分けて下さいと関興寺に参拝する者があとを絶ちませんでした。 以来、「人々の間でこの味噌をいただくものは、大般若経典のご利益にあずかり福徳が授かることができる」 と世の人々に言いはやされるようになり 「関興寺に参拝したならば、お味噌を頂かなければ何のためにお参りしたか甲斐がない」 「関興寺にお参りして有難い味噌を頂きましたか?」の問いかけの言葉として 「関興寺の味噌なめたか」 の言葉が後世の人々に言い伝えられるようになりました。(パンフレットより抜粋、一部編集)