(※ http://theearthnews.jp/#!/contents/1367 の記事の再掲です)
△宮城県南三陸町には、ガレキが依然として残る。
その町に入ったとたん、前を走る車が砂ぼこりをたてた。愕然とする。震災直後ならば、珍しい光景ではない。あのころは、道路が褐色に汚れていた。しかし、この町に訪れたのは2011年の12月。震災から9ヶ月が経過したというのに、この変わらなさはなんだろうか。
△津波被害を受けた南三陸町の防災対策庁舎
宮城県南三陸町には、いまだに土砂、コンクリの破片、建材のカケラ、旗の切れ端、そして岩と船、自動車が転がっていた。取り壊しが決まったという防災対策庁舎も、赤い鉄骨をさらけ出したままたたずんでいる。福島県から北上して、被災した地域をいくつもまわってきた。かつての住宅街が、やけに見通しのいい基礎だけの場所になっていたことはあった。しかし、これほどまでに震災の傷痕が残る場所は見ていない。南三陸町の総人口は17,666名。震災による死者・行方不明者数は、876名。
△南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さん。
「このスピードは復興どころじゃない、この地域の人たちが大変なことになる」
そう警鐘を鳴らすのは、南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さんだ。ホテル観洋は温泉宿として知られ、1月20日には、旅行新聞社が主催した「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」の総合28位に選ばれている。震災によって露天風呂などに被害を受けたものの、宿泊施設は高台の丈夫な岩盤の上にあったため無事だった。町民600人の避難所として機能し、水不足に悩む中、避難者を守り抜いた。水道が復旧するまでに、112日間もかかったという。
△ホテル観洋のロビー。
誰もいない町で商売はできない。人をつなぎとめようと、4月23日にはレストランの営業を早くも再開した。若手のスタッフが手書きの看板を作って、道路に立った。ホテルとしても7月から一般営業に戻っている。
さらに今、三陸鉄道が実施している「三陸・被災地フロントライン研修」や、南三陸町福興市の「語り部プロジェクト」といった"被災地ガイド"の企画と連携している。ホテルの従業員が参加者の送迎などをサポートし、阿部さん自らも、震災時の陣頭指揮について講演している。こうした被災地ガイドは、ボランティアや家族連れのほか、企業の研修、議員の視察にも利用されている。「これだけのことが起きたのに、今回のことでなにも学び取らないことの方が恐ろしい」と、先日はガイドによる勉強会も開いた。
南三陸町の"復興格差"にはいくつもの理由があるだろうが、その一つは交通面だろう。この町は、少しだけ遠い。東北自動車道の築館ICから、約40kmの距離にある。同じ宮城県でも山元町なら、山元ICを降りればすぐだ。高速道路からほんの1時間の差にすぎないが、より行きやすいところに、支援は集まる。
「ガレキ撤去のボランティアでなくてもいい。ガソリンを入れてもらうだけでも救われる」
と阿部さんは話す。そう、福興市場でサケ汁を食べに行くだけでも、真ダコを買いに行くだけでもいい。
△ホテル観洋から眺めた志津川湾。少しずつ漁業が再開している。
陸地と比べて、海は大きく変わっていた。夏に訪れた時には、水面には何もなかった。しかし、ホテルのロビーから見おろした志津川湾には、養殖施設や定置網が設置され、無数の浮き球が見えた。
△宮城県南三陸町には、ガレキが依然として残る。
その町に入ったとたん、前を走る車が砂ぼこりをたてた。愕然とする。震災直後ならば、珍しい光景ではない。あのころは、道路が褐色に汚れていた。しかし、この町に訪れたのは2011年の12月。震災から9ヶ月が経過したというのに、この変わらなさはなんだろうか。
△津波被害を受けた南三陸町の防災対策庁舎
宮城県南三陸町には、いまだに土砂、コンクリの破片、建材のカケラ、旗の切れ端、そして岩と船、自動車が転がっていた。取り壊しが決まったという防災対策庁舎も、赤い鉄骨をさらけ出したままたたずんでいる。福島県から北上して、被災した地域をいくつもまわってきた。かつての住宅街が、やけに見通しのいい基礎だけの場所になっていたことはあった。しかし、これほどまでに震災の傷痕が残る場所は見ていない。南三陸町の総人口は17,666名。震災による死者・行方不明者数は、876名。
△南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さん。
「このスピードは復興どころじゃない、この地域の人たちが大変なことになる」
そう警鐘を鳴らすのは、南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子さんだ。ホテル観洋は温泉宿として知られ、1月20日には、旅行新聞社が主催した「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」の総合28位に選ばれている。震災によって露天風呂などに被害を受けたものの、宿泊施設は高台の丈夫な岩盤の上にあったため無事だった。町民600人の避難所として機能し、水不足に悩む中、避難者を守り抜いた。水道が復旧するまでに、112日間もかかったという。
△ホテル観洋のロビー。
誰もいない町で商売はできない。人をつなぎとめようと、4月23日にはレストランの営業を早くも再開した。若手のスタッフが手書きの看板を作って、道路に立った。ホテルとしても7月から一般営業に戻っている。
さらに今、三陸鉄道が実施している「三陸・被災地フロントライン研修」や、南三陸町福興市の「語り部プロジェクト」といった"被災地ガイド"の企画と連携している。ホテルの従業員が参加者の送迎などをサポートし、阿部さん自らも、震災時の陣頭指揮について講演している。こうした被災地ガイドは、ボランティアや家族連れのほか、企業の研修、議員の視察にも利用されている。「これだけのことが起きたのに、今回のことでなにも学び取らないことの方が恐ろしい」と、先日はガイドによる勉強会も開いた。
南三陸町の"復興格差"にはいくつもの理由があるだろうが、その一つは交通面だろう。この町は、少しだけ遠い。東北自動車道の築館ICから、約40kmの距離にある。同じ宮城県でも山元町なら、山元ICを降りればすぐだ。高速道路からほんの1時間の差にすぎないが、より行きやすいところに、支援は集まる。
「ガレキ撤去のボランティアでなくてもいい。ガソリンを入れてもらうだけでも救われる」
と阿部さんは話す。そう、福興市場でサケ汁を食べに行くだけでも、真ダコを買いに行くだけでもいい。
△ホテル観洋から眺めた志津川湾。少しずつ漁業が再開している。
陸地と比べて、海は大きく変わっていた。夏に訪れた時には、水面には何もなかった。しかし、ホテルのロビーから見おろした志津川湾には、養殖施設や定置網が設置され、無数の浮き球が見えた。