$復興地ぶらり旅in東北


お世話になっております! 瀬戸義章です。このたび、私が書いた本が出
版されましたので、ご報告いたします。

「ゴミ」を知れば経済がわかる PHP研究所/1,680円(税込)
http://www.amazon.co.jp/dp/4569804071

"私が書いた"と言いましたが、実際にはとても一人で書くことはできませ
んでした。インタビューに応えてくださった方々、ヒントやアドバイスを
授けてくださった方々、応援してくださった方々のおかげで、こうして一
冊の本ができました。本当に、ありがとうございます!


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■□本の内容□■
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本の中身をひとことでまとめると、これは、「可能性の本」です。

・日本のお下がりである中古家具や古着を買えて「誇りに思う」。
・段ボールの再資源化で産業革命を成し遂げ、裕福になったベトナムの村。
・世界で展覧会が開かれるまでになった、"東日本大震災のガレキ"から子
 どもたちがつくったオブジェ。
・"クルミ"という食文化を見直して、復興する岩手県。
・貧困層の、そして被災地の住環境を改善する「ゴミ」というものづくり。

「ゴミ」によって生きのびる。暮らしを良くする。ビジネスを起こす。
そんなポジティブな"経済"の可能性が山のように詰まっています。

いずれも、東南アジアで詐欺師に騙されかけたり、泥の川に落ちたり、あ
るいは東北の被災地で、三ヶ月以上寝袋生活をしながら見聞きした経験で
す。リアリティの、「手ざわり」のある報告になったかと思います。


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■□Amazonキャンペーン□■
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ただの発売報告では芸がないと思うので、ちょっとした余興を考えまし
た。本日から27日(金)までに、この本をAmazonでご購入していただい
た方の中から、抽選で3名様に「ライティング」をプレゼントいたします。

無料で、A4用紙2枚分程度の原稿を書きます。ということです。

webページやメルマガやパンフレットや日記(?)などにお使い下さい。

「ゴミ」を知れば経済がわかる PHP研究所/1,680円(税込)
http://www.amazon.co.jp/dp/4569804071

ご応募はAmazonの《注文番号》を私宛にメールしてください。
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(※この記事は http://theearthnews.jp/#!/contents/1391 の再掲です)


復興地ぶらり旅in東北
△根浜海岸の松林に建立された「津波記憶石」。

「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけど……僕らはくじけない!」
信号待ちのあいだ、歩道に目をやると、黄色い垂れ幕がそう唄っていた。

車を左折させ、海沿いへと向かう。積み上げられたガレキの山の脇を通り、ひび割れて海水が染み出す道路を抜けると、根浜海岸に到着する。岸の松林から大槌湾を眺めると、『ひょっこりひょうたん島』のモデルとなった蓬莱島が見えた。

2011年12月9日、根浜海岸では、「津波記憶石」の除幕式が行われた。白い幕が取り払われると、大きく「二千十一」と刻まれた、高さ2m70cm、幅70cmの黒い御影石が現れる。津波記憶石には警告と教訓が記されている。


復興地ぶらり旅in東北
△除幕式。石碑は浅葉克己氏のデザインによる。


復興地ぶらり旅in東北
△記憶石の後ろには大槌湾が広がる。正面に見えるのが蓬莱島。


復興地ぶらり旅in東北
△日本語と英語で碑文が記されている。

「ともかく上へ上へ逃げよ。てんでんこで逃げよ。自分を助けよ。この地まで、津波が来たこと、そして、裏山へ逃げ多くの人が助かったことを、後世に伝えてほしい」
"Just run! Run uphill! Don't worry about the others. Save yourself first. And tell the future generations that a Tsunami once reached this point. And that those who survived were those who ran. Uphill. So run! Run uphill!"

文章の横にはQRコードも彫られていた。携帯電話で読み取ると、津波に襲われた当時の映像を見ることができる。記憶石には、震災で失ったものに対する慰霊の祈りと、津波の恐ろしさを後世にまで伝えたいという願いが込められている。

津波記憶石の建立は、全国の墓石業者による組織「一般社団法人 全国優良石材店の会(全優石)」が推進している。東日本大震災によって、墓地も大きな被害を受けた。墓石は倒れ、あるいは流され、死者を弔うこともままならない状況だった。お盆前にはきちんと葬りたいという訴えを受けて、全優石は「お墓レスキュー隊」を組織し、墓地の復旧に尽くした。

支援活動を続けるなかで、多くの命を慰霊するとともに、津波の記憶を子々孫々に伝えていく必要性に気づいたという。岩手県宮古市の姉吉地区では、「此処より下に家を建てるな」と書かれた石碑の教えを忠実に守り、津波の被害を免れた集落がある。この逸話をきっかけにして、「津波記憶石」建立計画がスタートした。岩手県の釜石市を皮切りに、岩手・宮城・福島の津波被害を受けた沿岸部500kmに、500の石碑を建立することを目指す。

1番目の記憶石は、浜辺の料理宿、「宝来館」の目の前にたたずんでいる。海岸沿いの建物が軒並み流されてしまった中、やや高い位置にあった宝来館は、2階部分まで津波にえぐられたものの、生き残った。2012年1月5日には営業を再開している。


復興地ぶらり旅in東北
△宝来館の女将、岩崎昭子さん。

岩崎さんは、ひんやりとする津波記憶石を抱きしめながら言う。
「津波石がありながらも、被害を受けた場所がおおぜいあります。そこでは『ああ、この石がある意味をもっと考えればよかった』と思うことでしょう。時間が過ぎれば過ぎるほど、記憶石は大切になります。だから皆さんも、ここに来てみるだけじゃなくて、触ってほしい。抱きしめてほしい。気持ちを、心を、この石に込めて欲しいんです」

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(※この記事は http://theearthnews.jp/#!/contents/1384 の再掲です)


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△公園にペイントしたのは地区の子どもたち。「スベリタイ?」

ロープでタイヤをぶら下げてブランコに。ベニヤ板を並べて滑り台に。建材の柱はシーソーに。土管を地下に埋めて"地下通路"も完成した。ここは「みんなの仲良し広場」。2011年7月10日にオープンした、大船渡市三陸町越喜来(おきらい)地区にあるこの公園は、震災ガレキを上手に組み合わせて作られている。

3月11日に発生した大津波によって、この地区では264戸の家屋が全壊した。漁協の関連施設や三陸畜養センター、アワビ種苗センターなども壊滅し、漁船は230隻中、200隻が流失または破壊された。越喜来地区の死者・行方不明者は97人に上る。

「被災後まもなくして、これからの越喜来をどのような形に復興していこうか。暗いテントの中で、毎晩のように話し合いました。その中で、子どもたちにも一緒に参加してもらおうということになったんです」
公園建設の中心を担った、片山建設社長の片山和一良氏はこう語る。


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△公園の掲示板に飾られていた2011年7月10日オープン時の写真。

かつての商店街に、みんなが集まる場所をもう一度作ろう。そこに未来の越喜来をテーマにした絵を掲げて、思いを届けよう。復興を願った多くの子どもたちが、赤や黄色のペンキを手にして「みんなの仲良し広場」を彩っていった。入口に『最初にひなん路カクニン!!後方スタンドわきの道路を上がれ』と、注意書きも忘れずに。


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△併設されたゲートボール場。

お盆明けには、今度はお年寄り向けに、ゲートボール場も併設された。雪が無くなるころには、地元の「GB愛好会」による土日の練習が再開される。

なぜ、片山氏はガレキを活用したのだろうか。
「ありものを買って、ただ持ってくる。そういうことをしたくなかったのです」
答えは力強い意志とともに返ってきた。それがガレキであるかどうかは関係ない。ただ、未来の越喜来は自分たちで作るという意志を、子どもたちを巻き込んで形にしたかった。そのために、使えるものを使っただけだ、と。


復興地ぶらり旅in東北
△復興の想いを込めて子どもたちが描いた絵。

公園には15名の子どもたちが共同でベニヤ板に描いた、幅5メートルほどの絵が飾られている。山は緑にあふれ、色とりどりの花が咲き、動物が笑い、鉄道が走り、三角屋根の家が建ち並ぶ。なつかしい未来へのあたたかい決意が込められた、一枚の絵。

越喜来地区では、2011年12月になってようやく中心部に仮設商店街の建設がはじまった。オープンは2012年2月11日予定。それ以前に建った「施設」は、「みんなの仲良し広場」をふくめてもごくわずか。真向かいのガソリンスタンドは津波によって壁はなくなり、屋根は大きくかしいでいるにもかかわらず、「改修の契約は交わしているが、業者が多忙すぎてなかなか工事が始まらない」という状況だ。そんな状況で、いち早く立ちあがったこの公園は、どれだけ復興への意志を伝えていたことだろう。

広場の看板に、ペンキで大きくこう書かれていた。
「ここがオキライですか? ハイ!! でも でも だ~い好きです!」

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(※この記事は http://theearthnews.jp/#!/contents/1320 の再掲です)

岩手県山田町には、直木賞作家の三浦しをんが「小説のすべてがありますね」と評した伝承がある。『遠野物語』第99話におさめられているその一編は、明治29年に三陸海岸を襲った大津波から、一年後が舞台。

津波で妻と子を失った福二という男が、夏のはじめの月夜に、亡くなった妻と再会する。ふりかえって笑う妻のかたわらには、嫁ぐまえに心を通わせていたという、別の男の姿があった。いまはこの男と夫婦だという。未練の言葉をかけて妻を泣かせても、彼女の心は戻らない。二人は去り、夜明けまで福二は呆然と立ちつくしていた。その後、彼は病んだ。

という、短く、せつない物語だ。

東北学の提唱者で、東日本大震災復興構想会議委員でもあった赤坂憲雄はこう言う。「この小さな物語によって、明治29年の『三陸大津波』はくりかえし記憶を蘇らせる。物語は記憶の大切な媒体(メディア)である」。伝承をていねいに掘り起こして「人としての身の丈に合った暮らしの知恵や技を、民俗知として復権すること」を赤坂氏は説いている。

一方、東日本大震災の被災者は、岩手県の山林でクルミを拾い集めた。


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△SAVE IWATE代表の寺井良夫氏。集めたクルミを商品化中。

三陸地方に多く自生している鬼クルミを、1kgにつき250円で被災地支援組織であるSAVE IWATEが買いとったからだ。もともと、岩手では「おいしい」という意味で「クルミの味がする」という言い回しが使われていた。かつてはハレの日に食べるご馳走だったののだ。その風習が廃れてしまったいまでも、木は残っているので、クルミの実は拾い放題。SAVE IWATEのもとには20トンものクルミが集まった。


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△余った支援物資のタオルをつかって被災者が手縫いをした「復興ぞうきん」。

もともとSAVE IWATEは盛岡を拠点に、被災地各所への物資運搬や情報提供をしていた。事態のフェイズがかわるにつれ、被災者でもできる手しごと「復興ぞうきん」プロジェクトを行い、さらには、東北の大地に文字通り眠っていたクルミを使って、産業を興す取組をはじめている。現在、クルミを使ったお菓子や料理、さらには殻を使った工芸品や園芸用品まで、複数の企画が進んでいる。

岩手県には、東北には、さまざまなものが隠されていて、それを上手に活かしていくことが、「復興」につながるのだろう。

SAVE IWATEは、岩手県三陸沿岸の祭・民俗伝統芸能情報をまとめた「復興カレンダー」を製作した。WEBサイトにはこう紹介されている。

「岩手県は郷土芸能の宝庫といわれ、沿岸部には約250団体の郷土芸能が伝承されています。(中略)この度の震災により、多くの芸能団体が尊い命と共に道具や衣装を失いましたが、御魂の供養をと、お盆の頃からわずかに残った道具を持ち寄り活動を再開している団体が多くありました。仮設から通って太鼓を叩き始める人、泥に埋もれた山車や道具を洗い清める人、それはまさに鎮魂と祈りの姿でした。三陸沿岸の人々はいま、震災を乗り越えるために歩み始めています。カレンダーを見る時、三陸復興に思いを寄せていただけましたら幸いです。」


復興地ぶらり旅in東北
△復興カレンダーの表紙は、大船渡市越喜来につたわる「浦浜念仏剣舞」。

そもそも「まつり」には、非日常のことに時間をかけて、地域の縁を強化するという機能があるといわれる。この町に誰がいて、誰がいないのかを把握する。ひとつのものごとに向けたプロセスを共有する。そうすることで、いざというときの対応力が高まるのだ。困難に立ち向かうための伝統的な知恵が、そこにはあった。

(※これはhttp://theearthnews.jp/#!/contents/1375の記事の再掲です。)

復興地ぶらり旅in東北
△仮設の復興商店街「気仙沼横町」。

白い湯気のなかから現れたのは、手打ちの讃岐うどん。エビ、サンマ、カボチャの天ぷらが山盛りだ。さすが気仙沼、サンマの味が尋常ではない。11月12日にオープンした仮説商店街、気仙沼横町にある「祐(たすく)」の"漁師風ぶっかけうどん"は、絶品だった。

この店は、気仙沼の居酒屋で働いていた牛島祐子さんが、新たに立ち上げた。店を手伝う弟の鈴木正治さんは、元漁師だ。震災によって、船が焼けてしまった。店名は、きょうだいの「助けあい」から付けている。


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△本手打ちうどん「祐(たすく)」の牛島祐子さんと、鈴木正治さん。

うどん作りの素人だった牛島さんが開業したきっかけは、はなまるうどんの声がけだ。被災地で新たに商売を始められるよう、うどん作りを教える。そんな誘いに手を上げ、埼玉県越谷にある「讃岐本手打ち いわい」にて修行を積んだ。機械をまったく使わない、"本手打ち"の基礎を学んだ。
「太さがばらばらで、これじゃあ怒られちゃう」
そう言って牛島さんは苦笑するが、店には毎日、この味を目当てに地元の人やボランティアが訪れている。

気仙沼の鹿折地区も仮設商店街の建設予定地区だ。津波被害の痕跡が強く残るこの地区は、しかし、毎日、少しずつきれいになっている。IVY 国際ボランティアセンター山形の活動によって。


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△側溝の清掃作業をするIVYのチーム。

側溝に詰まった泥とガレキが固い。ツルハシが必要だ。溝に落ちたコンクリートのフタは、男手を集めて持ち上げ、伸びた雑草は女性陣に刈り取るように言う。リーダーである浦川貴史さんの指示は的確だ。


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△IVYの気仙沼事務所。矢印の部分まで津波を被った建物を借り受けた。

水産業には欠かせない氷屋で働いていた浦川さんだったが、震災の被害を受けて会社は営業を停止した。再開まで、IVYの元で働く。このNPO法人が使っているのは、キャッシュフォーワークという仕組みだ。全世界から寄付金を募り、その資金で被災者を雇用する。仕事は、ガレキの撤去のほかに、仮設住宅での「朝市」がある。いまの雇用者は41名だ。

この仕組みであれば、「被災者」が支援を受ける側ではなく、自ら復興の担い手として働くことができる。さらにIVYでは、正社員として仕事に就けるよう、ヘルパー2級の資格取得や、工務店でのインターンシップなどの支援も行っている。

被災者を雇用し、復興活動をしている団体は気仙沼にもう一つある。一般社団法人 気仙沼復興協会(KRA)だ。気仙沼市から委託を受け、災害廃棄物の撤去や、仮設住宅のケアを行う。この団体は、階上中学校への避難者が中心となり、立ちあがった。事務局長の千葉貴弘さんは元ホテルマン。彼もまた、津波の被害を受け、仕事を失った。KRAでは、現在100名を超える被災者を雇用している。


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△KRAのユニフォーム。オリジナルマグカップも作成した。

かつてのスーパーの駐車場に建てられたKRAの事務所は、いつ来ても、良い笑顔と活力を感じることができる場所だ。スタッフはチームシャツやコートを揃えている。
「そうそう、新しくなったんですよ」
そう千葉さんに渡された名刺には、赤いずきんを被った女の子のマスコットキャラクターが描かれていた。

1月7日に放映されたNHKスペシャル 東日本大震災「"震災失業"12万人の危機」によれば、12万人が東日本大震災によって仕事を失い、石巻開成団地の仮設住宅の場合、47%が失業状態にあるという。水産業従事者に限ればその値は74%にも上る。被災地では、いかに仕事を創造していくかが求められている。

IVYもKRAも、被災者が正式な仕事に就くための「つなぎ」として活動している団体だ。しかし、そのポテンシャルは高い。将来的に、IVYでは被災地ガイドの仕事を検討しており、KRAも農業や漁業の活性化に踏み込んでいくことを考えている。

気仙沼は、「仕事」によって復興する街だ。