12・8観劇
久しぶりのブログだが、書けなかった理由は、今年脚本の作業が多すぎた。というより、来年の6月までまた公演が立て込んでいて、ちと、また書けなくなりそう。むぅ。辛い。
そして、今回は観劇ブログという訳ではない。
『袴垂れはどこだ』の戯曲について想いを巡らせる。
福田善之氏が作。
1964年に初演。
岸田國士戯曲賞を辞退。
昨年の読売演劇大賞の杉村春子大賞を、演出でシライケイタ氏が受賞したのも記憶に新しい。
この「袴垂れ」なる盗賊のモデルは、藤原保輔である。というのは、『続古事談』によって袴垂保輔と記述され、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』にも登場している。また、平安時代中期、藤原保輔は官職につきながらも、盗賊として名を馳せた実在の人物である。
記録上、最古の切腹を行った人物としても有名である。
さて、まずパンフより、この戯曲が描かれた背景として日米安保、沖縄問題、ベトナム戦争、学生運動が挙げられていたが、私は異なる角度から考察する。
その鍵となるのは「サンカ」と呼ばれる物者である。
「サンカ」の定義には様々あり、共通する点は、本州の山地に住み、定住しない回遊生活者であるという事。明治には約20万人と推計されていた物者だ。
様々な理由で、定住を諦めたサンカが存在した。
職能民として、定住しない方が稼ぎを得れた者
百姓から重税に苦しみサンカに下った者
職にあぶれた浪人等と、仮に定義する。
ちなみに演劇などの芸事を成す「河原乞食」
大和政権に屈しない一族「土蜘蛛」「蝦夷」
などもサンカと呼ばれていた。
戦後、三角寛氏をはじめとしサンカを取り扱った作品が人気を集めた。1962年には、サンカ研究の第一人者として評価を固め、東洋大学の文学博士の学位を取得している。
そこから、サンカへの差別への気雲が高まり、学生運動や部落解放運動と共に、大きな活動へと変化した。
しかし、商業小説を出発点にした活動であったので、一般認識のサンカのイメージに大きくフィクションが織り交ぜられ、それが明らかにされる度に下火になっていく。という事態になり、今ではサンカの言葉さえ、あまり聞かなくなってしまった。(元々、サンカの呼称は官憲による蔑称であるため聞かない世の中の方が良いのかもしれない)
『袴垂れはどこか』が初演を迎えたのは1964年。サンカへの差別解消の気雲高まる時期である。そして、作中重要になるのは「袴垂れ党」なる百姓から降ってきたサンカ達である。
私は、この戯曲に込められた思いに実態の掴めぬ者に姿を与えようという意志と、なにより実態の掴めぬ者に翻弄される危機感を強く感じた。
袴垂れ(藤原保輔)の幻影を美化し、美しく生きようと努力する「袴垂れ党」の物者、しかしその幻影に裏切られた時、我々の手は血に汚れる事を逃れられなくなってしまっているのではないか。
実態のない物に思考を支配されるこれは、どの時代でも、起こりえる事象である。古くは、出自のはっきりしない中臣氏(藤原氏)の憲政や現代では、「イイネ」や「インスタ映え」なのかもしれない。これも古いのかもしれない。実態が掴めないものを盲信してはいけない。普遍性を以てして1964年から全時代を射抜く優れた作品である。
あと、アメノコヤネを後付けと定義した中臣鎌足帰化人説から始まる藤原氏の変化と藤原純友を紐解き藤原保輔へと繋がる何かが見つかると、少しロマンが広がるかもなァと夢想しています。