『システム・クラッシャー』
凄まじい映画だった。
ベニーという
男の子の名前を名乗る女の子が
暴れまくる映画。
幼い頃の虐待により
心に深い傷を負い、トラウマで
パニックになり大声で叫んだり
怒りの感情のコントロールができず
周囲の子ども達や母親に暴力をふるい
流血する場面も。
この映画で周囲に吠えまくる
狂犬のようなベニーを観て
自分の子どもの姿と重なり涙が止まらなかった。
子どもには生まれつき障がいがあり
ベニーと同じように怒りに体を支配されると
周囲の人に暴力をふるい、暴言を吐き
ガラスを割り、物を壊す。
数人の人に取り押さえられても暴れ
人に噛みついたり
髪を引っ張ってブチブチと髪を抜き、
引っ掻き、殴る蹴るを繰り返す。
気持ちがおちつくまで時間がかかり
癇癪が少し落ち着く頃
「ごめんなさい、すみません」と
何度も呟く。
あなたのせいではないのに。
感情を制御できないのは
脳の機能が上手く働かないからで
努力でどうにかなるものではないのだから。
障がいのある子を産んでしまった
私が全て悪いのだと
思い詰めて何度も何度も
もう私たちはこの世界で
生きてゆくのは無理だと
絶望した。
外出先で癇癪が起きてはいけないから
何年も家の中に子どもと引きこもって暮らした。
大好きな映画も映画館で
観ることができなかった。
色々な病院で様々な検査を繰り返し
数々の薬を試しているが
中々子どもの症状は改善しなかった。
家族の障がいのことや
学校での支援体制のことを
学校の先生やスクールカウンセラー
児童精神科の先生
児童相談所や町の健康福祉課
障がい児をサポートする機関
思いつく限りあらゆる人に相談して
何とか解決しようともがいていた。
しかし、誰に相談しても言われたのは
「お母さんも大変ですね。
私どもではお力になれず申し訳ありません」
判で押したように、同じ言葉を聞かされた。
それは、
障がい者は役に立たず
ここにいても迷惑なだけだから
あなた達家族を助ける気はありません、
と言われているのと同じだった。
私達は孤立し、孤独は深まるばかりだった。
何年もそんなやりとりを
あらゆる人と繰り返して
とうとう私の心は壊れてしまった。
私と同じように障がいのあるお子さんを
育てている友人に
苦しみに押しつぶされて
不安で眠れなくなってしまったこと、
誰も助けてくれないことを手紙に書いて送ると
友人が私の住む町の保健師さんに
電話で相談してくれて
子どもは児童相談所の一時保護所に入り
私は精神科に通い薬を飲んで
何もできなくなってしまった。
子どもの通院の日、
久々に会った子どもの眼から
光が消えていた。
一時保護所では大人しく落ち着いていること、
時おり職員に暴力を振るうこともあることなど
日々の出来事を児童相談所の職員さんが
2日に1回電話で教えてくれた。
その電話がかかってくる夕方の時間は
着信音で目が覚めて
薬でぼんやりした頭で
電話口から聞こえる言葉を
ノートにメモしていた。
子どもと離れ離れになって数週間した頃
遠くの街で『システム・クラッシャー』の上映があることを知った。
凶暴な女の子の眼が子どもの暗い眼と重なり
重たい体を引きずって映画を観に行った。
普段、観たい映画があっても
育児や家事やパートで
中々自由に映画を観る余裕がなかった。
子どもと離れたことで観ることが叶った映画が
子どもに似た境遇の女の子の映画で
この映画を観るために私達は離れて暮らすことになったのかもしれない、
と強く感じた。
映画の中でベニーも児童相談所の一時保護所で暮らしていた。
ベニーが母親に会いたくて、会いたくて、たまらない様子が
痛いほど伝わってきた。
泣きながら、ここ数年で家族が辿ってきた
険しい道で見た殺伐とした風景を書き連ねて
もう言葉が上手くでてこない。
『システム・クラッシャー』は
私のボロボロの傷だらけの人生の
ひとつひとつの傷口に
深く沁み渡るような映画だった。
本当に素晴らしい映画。
一人でも多くの人に観てほしい
かけがえのない作品。