最近は曇りの日もあって、最高温度が31度や30度と、過ごし易くなっています。

 

しかし、その辺の温度をして過ごし易い、ということは、自分がつまり、ここ50年ほどの温暖化に、徐々に飼い慣らされて来ている、ということの証左でもあり、日本列島が動かずして、温帯地域から亜熱帯地域へ移行していることの、一つの自己動物実験の結果のようでも有ります。

 

高温多湿地域の人々の特徴に、肌の褐色化や、鼻孔の胡坐化などが有るようですが、あと数十年もすれば、この国の人々の相貌も、一応に亜熱帯化して来ているかもしれませんね。

 

さてまた、「人間というもの」から、引用して書いてにます。

 

< 人間は、ただ存在しているだけでは、鑑賞に耐えるようなしろものではありません。

仕事をしている人間は、美しい。 それを見るために一時間も建築現場のふちに立っている人もいます。

    「ある運命について」 >

 

わたしが小学生の頃、毎日のように高校の野球部の練習を見に行っていたのも、部員たちの動きに、なにかしら美しさを感じ取っていたからかもしれません。

 

そしてまた子供の頃は、家の建築中の現場や、家壊しの現場が有ると、立ち止まって何時までも眺めていたものでした。

 

大工さんが大きな梁を担いで、空中の狭い材木の上を歩いたり、鉄骨の穴に打ち込む真っ赤に焼けたボルトを、下からシャモジのような容器で投げ上げたり、そしてそれが時には上で待ち受ける人に届かず、大きな怒鳴り声が聞こえたり。

 

何時までも立ち止まったままの姿で、見続けていたものでした。

 

実は今でも、建築現場や解体現場に通り合わせれば、車を止めて、ずっと何時までも見ていたいのですが、子供の頃のようにはいかず、周囲の目を気にするトシになってしまいまして、いつも残念な思いを断ち切り、離れて行くのでした。

 

ただ、少年野球の練習や試合に行き合わせた場合、これは必ず時間の許すまで見続けます。

 

やはり選手の一所懸命さに、なにか惹かれるものがあるのですね。

( 時には、やたらに選手を叱る監督が居ますが、あれは嫌ですね )

 

野球の試合や練習は、当然グランドでやりますから、近くで見物ができるということがありますね。

 

それに比べると、柔道や相撲の練習などは、学校の敷地内へ入り込まねば見れませんので、なかなか機会はありません。

 

野球も良いですが、わたしとしては柔道部の練習見物も子供の頃から好きなのです。

 

小学生の頃、或る高校の柔道部の練習は良く見ていました。

 

そこは校門を入り、ちょっとした前庭の奥に立つ建物が柔道部の道場でしたから、小学生が潜んで見に行くには格好の場所だったのです。

 

まず一般的な体操から始まり、腹筋運動やブリッジ運動が始まりますが、そこの高校のブリッジ運動はとても激しく、頭を支柱にして、体を何度も反復回転させたりするものでした。

 

後年自分が柔道を始めて感じましたが、それらは首の筋肉の強化、そして寝技の強化が目的だったのでしょう。

 

わたしの大阪での柔道生活も終わり、田舎へ帰ってからは、長男が中学で柔道を始めるまで、柔道とは縁が切れてしまいました。

 

そんな中、或る高校から商品の注文が有り、肥料など届けて帰る時、校舎の方から聞きなれた音が聞こえますから、近づいて見ると、そこは柔道部の道場で、丁度生徒が練習をしているところだったのです。

 

わたしは何はさて置き、窓に近づいて練習風景を見ることにしましたが、直ぐに呆れて、高まっていた興奮が一気に意気消沈してしまいました。

 

部員が乱取り練習をしている畳敷きの道場の直ぐ脇に、バーベルやダンベルが置いてあるのです。

 

わたしにはバーベルなどの器具の傍でする柔道の練習など、考えられません。

 

たとえダンスの練習でも、鉄の塊の傍では、それは危なくて、有り得ないことでしょう。

 

5~6人の部員が練習をしていましたが、瞬時に、此処の高校の柔道に対する姿勢が解ってしまいました。

 

バーベルなどの置き場が近くに無ければ、離れた所へ一々運んで置くのも、ウエイトトレーニングになるのです。

 

1分程見て、な~~んだ、と気抜けして、とぼとぼと駐車場まで歩いて行ったのでした。

 

そこの道場には、美しきものは、感じられなかったのですね。

 

< 「夫人ほど男子の志を溶かすものはない、おそろしいのは、志の薄弱な姿勢の遊治郎のみが夫人に溺れるかといえば、そうではない。英雄豪傑の方がかえって溺れる」

    「峠 上」 >

 

そりゃあ哺乳類の世界では、強力なリーダー格のものが、自分の種を残そうとするのは学術的にも常識ですからね。

 

< サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけている。類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。

     「峠 下」 >

 

昔、国際サッカー界には、フェアプレー賞というのが有りましたが、日本チームは良く受賞していた記憶があります。

 

野球やサッカーで付けられる、サムライジャパンの名称の中にも、そんな美的思考感覚も入っているのかも知れませんね。

 

しかしわたしには、余り好きなネーミングとは思えません、時代物を読んでいますとサムライにもいろいろありますからねぇ。

 

それよりは、ケマリ・ジャパン(漢字表記 蹴毬・ジャパン)なども良いかもしれませんが、あまり強そうではありませんね。

 

 

ここまで司馬さんの、「人間というもの」から、感想を書いてきましたが、これにて終わりのようです。

 

今後はまた、他の本の感想など書いて行きたいと思いますが、良い作品に恵まれれば良いですが・・・。