村田喜代子作「ゆうじょこう」を読み終えました。

 

この作品は、読売文学賞を得ています。

 

何とも強烈な内容でした。 遊女の生活振りが、或る部分では特に細やかに書かれているのですが、それらは性技に関することで、今までに読んだことの無い部分に深入りした内容でした。

 

「この作家はたしか女性だったよな~」と思いながら、また「女性だからこそ書ける内容なんだろうか・・・」とも思える気分が残り、途中から、読む意味をあまり感じられずに読むのを止めようか・・・、とも思ったのですが、最後の方を読んでみると、環境が変わっているように有りますから、じゃあそこまで読もうかとなり、ついつい終わりまで通して読んでしまったのでした。

 

イチという名の、硫黄島で生れた15歳の少女が、熊本の大きな遊所に売られて来るところからこの話は始まります。

 

そこは全国でも五指に数えられる遊所で、イチの所属した所は、東雲楼という遊郭です。

 

イチはそこの東雲という花魁の下に付けられ、遊女見習の生活が始まります。

 

わたしが注目した内容の一つは、遊女相手の寺子屋のようなもの「女紅場」の授業の中で、遊女見習それぞれに作文を書かせる所からでした。

 

主人公のイチも作文を書くのですが、イチはこの作文受業に特に興味を持つのです。

 

その作文たるや、漢字なしのひらがな中心の文なのですが、わたしにはそれはまるで、一つの詩を読むように思えてくるのでした。

 

<イチが最初に書いた作文から>

五月十五日         青井イチ

じょうり はくの わすれて

いぬ ねこだと 言われました

あたいの おとさん おかさん

しまでは はだしで あるいている

あたいは ここで じょうり はいている

じょうりを はいたら にんげん でしょか

 

<またその後の作文>

五月十八日

みせのおとうさんが あたいに いっかすどん (言い聞かすが)

ちごっ (違う)

たたみの うえでは しにませぬ

あたいは なみのうえで しにまする (波の上で死にまする、イチは島で海女もしていたので)

 

<遊女とその親など牛馬と同じ、と言われて。>

七月一日   青井イチ

あたいの おかさんは うみで かいをとり いおをとります  (海で貝をとり魚をとります)

あにょと あんにゃと あたいと おとっつ いもっじょを うみました  (兄と姉とわたしと弟妹を産みました)

そして せっぺ はたらいて みなに ままくわせます  (精一杯はたらいて)

そんな おかさんが うし うまとおなじなら

うしも うまも まこて てーしたもんだと おもいます

 

これらを読んで判りますが、イチは強気な少女なのですね。

 

負けん気が強いのです。 そして作文に気持ちが良く現わされていますね。

 

これらの作文は、何にも意識をせずに、奇をてらうこともせずに、一つの詩に成っているのだと、わたしには思われるのでした。

 

わたしは元々、難しい詩や、難しい俳句、難しい短歌など、それぞれ仲間内では評価されても、わたしのような者に意味が解らないものには、興味が湧かないところがあるのですが、イチのこのような、心の底からの自然な表現には、心を打たれるものが有るのです。

 

物語は、郭内での生活が続く中、遊女のストライキがあり、また集団脱走が平和裏に有ったりしますが、その付近から、どうやらわたしには興味が薄れていきます。

 

なんとなく、急いでまとめたような感がするからでした。 

 

そんな作品でしたが、イチの作文だけは、忘れる事無く、頭のどこかへ残っていきそうな気がするのでした。