81歳になりました。 一緒に暮らす長女と同じ誕生日ですから、朝から他所で暮らす子供達からのラインでスマホが賑やかなことでした。
81歳という年齢を考えた時、先ずは、良く生きて来たものだな・・・、との思いが浮かびます。
70台当時は、自分の年齢を何かに書いても、「エッこれは誰の年齢?」と言った感じがしていたのですが、80歳からはそれを感じなくなりました。
80歳とか81歳とか書いていて、「ふむ・・」と、何か自然に納得できるのです。
それは多分体力が年相応に成ったからでしょう。
そう言えば75歳位までは、「自分としては55歳位の感じがするな・・・」と言った思いだったのですが、79歳位からあちこちと体に不具合が出て来まして、80歳に成った年には、何時の間にか自然にシックリと来る状態になって来たのです。
またまた商売の先輩の言葉が出て来ますが、「80に成れば、ガクッと来るで・・・」との言葉に、「なるほど・・・」と、不承不承ながらも納得させられてしまいます。
しかし考えてみれば81年というのも、長い年月ではありますね。
生れて18年間は家に居て、その後は9年程大阪で働き、その後田舎に帰って商売を継いで、54年程に成ります。
我が家の商売は今年で創業113年程に成りますから、その内約半分ほどはわたしが関わっていたことになります。
しかし商売を継いでの54年間と、大阪で働いていた9年程の中身については、その年数の存在感に余り差異は無いように感じます。
それだけ若かりし頃の大阪での激務に印象深いものが有るのと、商売を継いでの毎日の、現在進行形の流れに、記憶の強弱というものが生じて来るのでしょうか。
北は埼玉県、南は宮崎県まで、商売上1.5トントラックで走り回った経験は、あまり印象として心の中に色濃く残ってはいないような感じもします。
今も途切れることの無い、毎日の商売の一環としてしか捉えられないことだからかも知れませんね。
ただ地域としてのことより、会って来た人々の印象は何時までも残っているものですね。
良く出かけて会った京都の同業者のことや、千葉県の同業者、また広島の同業者の方。
また別府の同業者の方のことは、未だに時々思い出されます。
そしてまたそれ以上に強烈に記憶に残っているのは、若い頃大阪で働いていた当時の職場の先輩達の姿ですね。
今考えてみれば、多くの方が戦争帰りの人々であり、大連中学卒業の方も何名か居られました。
戦争帰りの人の中には、関東軍所属の方も居られましたが、従軍慰安婦の話や、此処では書けない戦争中の話など、リアルな話を何度か聞かされたものでした。
そして皆さん一応に驚いていたことは、わたしが昭和20年生まれだということでした。
先輩方はそれを聞くと周りを見回し、「おお!!、20年生まれが来たぞ!!」と話し、多くの人が騒ぎ、そしてまるで新種の哺乳類を発見したかのような眼で、わたしは見つめられたものでした。
先輩たちにしてみれば、昭和20年とはやはり特別な年だったことが窺えたものでした。
遠い遠いような、しかし強烈な記憶たちは、やはりその後の年月に勝るほどのものが有ったようです。
未だに続けている商売の方は、もうここまで来れば遠方へ出かけることも無いですが、後は体の動く限りぼつぼつと遣って行く積りです。
まだまだ、リタイヤしている自分の姿の想像は出来ません。
若い頃から休みというものが余りありませんでしたので、何か仕事をしていないと、それこそガクッと来るような気がして来るのです。
春蘭のカレンダーから借りてきました。
