最近の読書に付いてですが、何しろ県立図書館が2月の初めから中旬まで休みで、地元図書館が中旬から2月いっぱい休みですから、リクエストしてもそれらを手にすることが出来ず、相変わらず地元図書館の受賞歴の有るもの中心に読んできました。

 

ここ最近のものは、「爪と目」藤野可織 芥川賞受賞からです。 これは幼稚園の女子が語る、父の再婚準備中の女のことが中心ですが、わたしにはイマイチ言いたいことが解らない作品でした。

 

次は受賞作品ではありませんが、本棚の間でふと振り向いたら有った、大沢在昌著「心では重すぎる」です。

 

久しぶりに大沢作品も読んでみようかと手に取りましたが、漫画家の生態などに興味が引かれたものの、全体には余り入り込めませんでした。

 

次は横関大著「再会」これは江戸川乱歩賞作品です。 当然ながら謎解き事件ものと言った感じですが、話がややこしく成るほど、リアル感からは離れて行くようです。

 

単純な中に真柏力が有る、というのがわたしの理想ですが、そのようなことを言っても、そりゃぁあなた・・・贅沢、と言われるのは判っているのですね。

 

何か話をややこしくして進めて行きますと、時々チラッと見るコナン番組のような感じで・・・、これは全くの偏見ですけどね・・。

 

ただ、江戸川乱歩賞に付きましては一つの発見も有りました。

 

本の巻末に、歴代の江戸川乱歩賞受賞作品が掲載されているのですが、その中に懐かしい題名を見付けたのです。

 

昭和32年 第三回受賞作品が 「猫は知っていた」二木悦子 となっています。

 

昭和32年と言いますとわたしは小学校6年生か中学一年生ですが、この題名はとても良く憶えているのです。

 

本好きの母親が何度も話題にしたようで、わたしの頭の中へ題名だけが入り込んで今まで居座っていたのでした。

 

わたしは本は読んでいませんが、何となく「吾輩は猫である」と並べて想像してみたりしていました。

 

「猫は知っていた」、この題名を見ますと、昔の、生まれて高校まで育った家の間取りまで思い出します。

 

あの仏壇と神棚の有る、トントンと歩けば箪笥の金の取っ手がカタカタと鳴る居間で、母が何やら少し上気した顔で本のことを話題にしている・・・、父が冷静に答えている、わたしは母のちょっとした興奮を気分よく眺めている。

 

小さい頃の家庭内の空気も併せて、この題名からは出てくるのでした。

 

次は楊 逸著「時が滲む朝」芥川賞作品でした。 今読後感を書いていますのも、この作品の読後感が良かったからその気になったのでした。

 

この小説の登場人物は全て中国の人達です。

 

ある少年が大学へ進学し、大学内で民主化運動に参加、後に日本へ逃れて…と言った内容でしたが、天安門事件などそう遠くない過去の事件が語られており、中国の若者の目から見た政治情勢などに特に興味が湧きました。

 

日本に逃れて来てからの生活や家族のことなど、あの天安門事件への参加者の話を読めるとは、全く予備知識も無いまま読書を始めましたが、思わぬ収穫のある小説だったのです。

 

実は途中、はて・・と、以前新聞で書評を読んだ記憶が蘇りました。 あぁこの本のことだったのかーと、俄然姿勢を変えて集中しようとしたものでした。

 

全体に流れるものは、淡々として穏やかな文なのですけどね。

 

 

さて地元図書館は今月末まで休みなのに、借りていた本は全て読み終えました。

 

そこで娘から一冊借りました。 北村薫さんの本です。 娘はまだ彼の本を読み続けているのでした。

 

どうなのかなぁ~と思いながら、何かを読まなければ活字中毒患者は治まりませんから、取り合えず読み始めたのでした。

 

 

ギンギアナムです。丈夫ですから、育てやすいです。

 

ガーベラです。 何となく懐かしい感じがする花です。