「マンガ 日本の歴史 34」の始めのページには、<幸運児>吉宗 となっていますが、八代将軍吉宗は子供の頃からトントン拍子に出世するのですね。
まず子供の頃、例の お成り の好きな綱吉が、江戸の紀州藩邸を訪れた時、四男の新之助(後の吉宗)を見て、利発そうなのに生涯部屋住みでは可哀そうと、越前鯖江三万石を与えるのですね。
ところが上の兄は全て早世して、結局三万石から紀州藩主へと帰任します。
一方江戸城では、六代将軍家宣が死の床で、尾張の吉通を次の将軍へと推しますが、新井白石が反対して四歳の鍋松君(家継)に世継ぎが決定します。
しかし4年足らずで病没、もう一人の吉通もその前に25歳で早世していたのでした。
そこで紀州の家格もあり、賢侯ぶりは世評に高く、天英院(家宣の正室)の推しや、側用人老中の推挙で、将軍へと吉宗は登り詰めるのですね。
やはり幸運児のようですね。
そしてまた吉宗は一流の人物であり、一流の経済学者でもあったようです。
その施策を挙げるだけで、長々と書かねばならなく成りそうですから、簡略にいたしますと。
先代の側用人は罷免し、実力主義で御用取次を決め、下に寺社、町、勘定の三奉行を置きます。
この中で有名なのが、大岡越前守忠相だったのですね。
食事は一日二食、老中を夜に呼び寄せて寝間着で対応し、容儀簡素、行動活発、合理主義。
儀礼廃止、財政再建 鷹狩復活 1717年の江戸の大火では屋根に上がり状況把握。
そんな吉宗ですが、幕府の権威を知らしめる為には経済観念を無視した行動もやっています。
1728年65年ぶりの日光社参がそうなのですね。
午前0時に先頭の奏者番出発、午前六時に将軍出発、前後2000人固める、最後尾午前10時出発、出発だけで10時間かけて、関八州から延べ400万人の人足、馬30万頭動員、とあります。
しかも5日前に予行演習までしています。
日光と言えば、19歳の頃東照宮に行きましたが、わたしにとっての最北到達地は日本の日光なのです。
その後、商売を継いでからも日光街道は何度もトラックで走っていますが、日光までは行かず内陸部の千葉県内にまで行っていました。
首都高速は入谷インターで降りましたか・・。 東京インターから首都高速を走っていますと、何度か右方向奥に歩行者天国が見えまして、銀座かなぁ、などと思いながら走り、暫くすると左下に上野駅が見えるのですね。
最初に走る前は地図で何度も確認してから運転しましたが、実際に走ってみると、分かれ道の要所要所は皆車が停滞していましたから、なぁ~んだ、となってゆっくりと行先が確認できるのでした。
車の運転は、やっぱり大阪で鍛えていましたら、何処に行っても恐くは無いのでした。
ところで吉宗ですが、米将軍・暴れん坊将軍・尊王将軍などとも呼ばれていますね。
しかし全ては、幕府の権威を高める目的のための施策のようです。
特に子供の家重を心配して、より将軍職の権威を高める必要があったようですね。
尊王将軍と呼ばれたのは、天皇の代替わりに行われる大嘗祭を、天皇方が言わないのに、将軍の方から勧めて実行させたからなのですね。
それも実は尊王と言うよりも、幕府の権威立てを示す目的からだったようです。
こうしてみると、何事も一つの目的意識の下に集約実行された政策のようですね。
目的意識の高さが特に窺える人だった、というのが感想でした。
・・・「ケネディー」の本は半分まで位ですが、やはり歴史の本を一冊既に読み終えました。
今度はまた暫く「ケネディー」を読んで行くつもりですが、また間に歴史の本を挟むことに成るようです。
右側の去年の木より少し大きく成りました。それでも2cmくらいですか。
この調子で行けば5年もすれば、5cm位の大きさに成りそうです^^
後ろのユーフォルビアの方が大きく成る予定で寄せ植えしましたが、マリーゴールドの方が
今のところ大きいです。 前後ろを逆にするべきのようです^^;


