先日帰省していた息子が、高校一年生になる男の子に「筋肉を余り付けるなよ、うちの家系は直ぐにモリモリになるから・・」と話したと言っていました。

 

わたしもそれには賛成で同意しました。

 

男の孫は小学三年生の頃からサッカー一筋で、高校生に成っても続けています。

 

サッカーにモリモリの筋肉は必要なくて、邪魔になるだけです。

 

我が家の男子、特に長男は、4代に亘って体に筋肉が付き易い体質になっています。

 

父も長男ですが、何故か弟はスマートな体形で瘦型なのに、父自身は筋肉質の身体でした。

 

そしてわたしも長男で、弟はスマートなGパンの似合う体形なのに、わたしも筋肉マンの部類です。

 

そしてまた息子も一人男子ですが、筋肉モリモリ男です。

 

そして高校生孫も一人男子で、現在サッカーを続けているから余り目立ちませんが、どうやらその血を正しく受け継いでいるようなのです。

 

父は仕事一筋でしたが、わたしと息子は若い頃は柔道を遣っていまして、ウエイトトレーニングはやはり良く遣りました。

 

ウエイトトレーニングを遣りますと見る見る筋肉が付きますから、遣り甲斐も面白さも有り、また柔道には力も必要ですから良く遣りましたが、これには落とし穴が有りまして、そうなるとどうしても力頼みの柔道に成りかねないのです。

 

技よりも力に頼る柔道、この方向へ進みますと、或る段階で壁にぶつかってしまいます。

 

それでわたしは、当時から筋肉というものを二つに分けて考えていました。

 

一つは必要な筋肉。 もう一つは不必要な筋肉、そしてこの不必要な筋肉は、装飾的筋肉、とも呼んでいました。

 

ボディービルの人にはすみませんが、体の回りに纏って見た目を競う筋肉は、スポーツには必要ない場合が多いのですね。

 

むしろ邪魔になることの方が多い気がします。 怪我の元にも成りかねません。

 

 

筋肉については若い頃ほろ苦い経験がありました。

 

仕事の一環として、毎日午前中は柔道の練習に励んでいる頃の事でした。

 

同じ柔道部の友達と、友達の寮の近くの銭湯へ行った時のことです。

 

二人で裸になると、あまり人が近づきません。

 

何時もの事ですから、多少気分よく風呂に浸かったのですが、その時先に入っている中年の角刈りの男性が、笑顔でわたし達に話しかけました。

 

「君たちの身体は仕事でできたものでは無いな・・・」

 

風呂に浸かったそのままのさっぱりとした笑顔を浮かべて話しかけてきましたが、わたしはその時何故かその言葉が胸に堪え「ハッ」とした怯みのようなものさえ感じられたのでした。

 

その時、お湯に浸かるその男性の身体の、肩から胸のあたりがすでにわたしの目には入っていました。

 

その男性の体は、父と同じで、仕事で堅められた筋肉で覆われていたのです。

 

一年中ほとんど休まずに働いている父は、力仕事が多く、体中が硬そうな筋肉で覆われていました。

 

盛り上がる、と言うよりも、ハンマーで叩き固めたような四角く平板な筋肉が、段差を作って肩から胸を覆っているのでした。

 

父と同じ、正に絶え間ない仕事で作られた筋肉が、ゆったりとした笑顔の下の上半身に見られました。

 

別に何も気にしたようでもない友達の横で、わたしは何か、自分が道楽で毎日柔道をしている人間のような、妙に卑屈な感覚に襲われたものでした。

 

話しかける友達に小さな声で答えながら、筋肉で盛り上がった自分の身体が、何故か贅沢な遊びの果てのもののようにも感じられてきたのでした。

 

多分それは、当時は田舎で毎日朝早くから仕事をしている父に対して、未だ超えられない大きなものを、無意識に呼び覚まされたからだったのかも知れません。

 

柔道が仕事の何分の一かに成っていた勤めを辞め、田舎の商売を継いで50年に成りますが、未だに昔の筋肉の名残が、肩凝りや腰痛の元となっているようです。

 

今では毎日の柔軟体操が、筋肉の終活運動となっているのです。