大江健三郎さんの本、「『自分の木』の下で」を読みました。

 

この本は大江さんが、中学生位の子供向きに書かれたり、講演された内容をまとめたもので、大江さんの文の苦手なわたしにも判り易く書かれています。

 

そしてこの本の内容は「なぜ子供は学校に行かなければならないのか」から始まり、「とりかえしのつかないことは(子供には)ない」など、一見子供向きに教育論を語っているように見えますが、内容は大江さんの哲学を語っているようにわたしには感じられました。

 

その中の「シンガポールのゴムマリ」という話に、小さい時の子供は「保守的」だ、と書かれた部分があります。

 

そしてその時の「保守的」の説明が、まぁ何という丁寧かつ詳細かつ判り易く書かれていることか。

 

わたしは大江さんの本の90%は理解不能(小説以外のものは比較的多く読めます)なのですが、もし全ての本でこのように判り易く丁寧に書いて下さっておりましたら、せめて30%位は一応読めたのではと思う内容です。

 

参考までに、「保守的」を説明している部分を挙げておきます。

 

保守的な人、ということができる人とは。

{ その国、その社会の、いま現在のあり方、動き方にそくして生きる。それに適応して生きてゆく。

 

未来のことも、いまあるあり方の、自然な延長として思い描く。

 

現在のあり方を変えようとは思わない。その国、その社会で、いま勢力のある人たちの考え方にしたがうやり方で、自分の態度をきめる。

 

とくに教えられたことを大切にして、そのとおりにやっていこうとするし、自分もそのように人に教えたいと願う。 }

 

わたしが読んでいる方のブログに、最近の若者の保守的生き方に付いて、の文が以前書かれておりましたが、この「保守的」の説明文を読んでいますと、なるほど、と改めて思い起こすことが出来るようにも思われます。

 

最近の若者にとっては、生まれてこの方毎日が平和な世の中で、真面目に過ごしていれば、一応三度の飯の心配はしなくてよいほどの社会になっています。

 

世の中が平和であれば、それを保守しようとするのは自然な流れであって、その中にどっぷりと浸かっていれば、世の中と言う広義の世界から、また自分の周囲と言う狭義の世界にまで、特段の変化を求めようとはしなくなるのでしょう。

 

そのような世界しか知らずに育ってきたのであれば、大江さんの言われる「保守的」人間が大量生産されていく、ということは自然の成り行きなのかも知れません。

 

保守的考え方で、全てが上手く回って行くのであれば、それはそれで良いことなのかも知れませんが、長年変化なくそれを続けていけば、何時か溜まった歪が表面化することは間違いないでしょうね。

 

歴史を見ていると、それの繰り返しの感じがします。

 

「保守的」という言葉から、何か自分にしては真面目な話に成ってしまいました^^;

 

 

今日も山へちょっと行ってきました。

モミジの花が終わったばかりでした。

 

なかなか見る機会がありませんので、もう少し早く来ていれば・・・と残念なりです。

 

余談ですが、盆栽界ではいろんな種類のモミジを使いますが、山モミジのことを、野風と書いてやふーと呼びます。

 

この場合のやふーは、馬の国のヤフーと違い、随分風情がありますね。