「マンガ 日本の歴史 22」― 王法・仏法の破滅 ― 応仁の乱
を読み終えました。
応仁の乱、歴史音痴を自認するわたしでも、その名称は勿論知っていましたし、時々入る知識から、京都で長年の戦が有ったらしい・・、位は知っているのですが、その正体は不明のままに今回読んでみました。
その結果は、何が判ったのかと言われましても、・・・さぁ良く解らない、と答えることしかできないのです。
1467年応仁元年となっていますが、1467年は、意・読むな、とも読めます。
つまり、その意味は読んでも良く解らないぞ・・、と言われているような・・年号までそんな感じなのですね。
応仁の乱とは、何から始まったものやら、まずそこが解り難いのですね。(わたしの場合)
始まった日は1467年(応仁元年)5月26日 と解っているらしいのです。
そしてこの戦い付近から、戦の遣り方が「やぁやぁ我こそは・・・」ではなくて、悪党、野伏、あぶれ者、農兵などのゲリラ戦が主たる戦い方になるようです。
まずそもそもの発端は、第六代将軍の足利義教が専制政治を行って、有力守護家の勢力を弱くしてしまい、有力守護家の勢力均衡政治がガタガタに成ったことに遡るようですね。
その影響も有り、有力守護家の畠山家の後継ぎ問題が揉めて、畠山家の中で、義就(よしなり)派と弥三郎派に割れるのです。
次に将軍義政が義就に弥三郎を攻めさせて、家督を継がせるのですが、ここのところは何故そうしたのか詳しくは解りません。
逃げた弥三郎が死んだあと、弟の政長を弥三郎派は家長とします。
― ここで、将軍義政の室は日野富子で、義政の母は日野重子なのですが、この三人が幕政の乱れを作り出しているところが有るようです ―
それで三人は、その後一転畠山義就を謀略の人と決めつけ、山城、河内、越中、四国の守護職を取り上げ出仕停止にします。
これは弥三郎派の後継ぎ政長を畠山家の家督として、将軍義政の勢力挽回が本来の目的だったらしいのです。
ここから義就と政長の長くて広範囲でややこしい戦いが続きますが、これにまた土民一揆が加わり、はちゃめちゃに成って行きます。 ( この間ややこしいので、はちゃめちゃと言う事にします )
西軍 山名一族 畠山義就他 東軍 細川一族 畠山政長他
主にこの二つの一族に別れて戦います。
で、最後、国一揆を抑え、将軍を傀儡化した細川政元の権力が確立して、反細川側の守護大名の領国統治が始まるのですが、これらが戦国大名と成るのですね。
本の終わりの方には、細川政元が出現しますが、この人に付いては別に詳しいことは書かれていません。
一冊の本の中に、応仁の乱の内容と、関連した周囲の人物を網羅しようとするにはページ上無理があるのでしょう。
( 読む方にも理解に無理がありますし・・・。)
それで応仁の乱が収束するのは1488年のような感じです。
感じと言いますのは、どこが収束か読んでいても解り難いので、そのようにしました。
約21年間のことだったのですね。
そんなに長ければいろんな事があり過ぎて、何処の部分と何を主に捉えるべきかなどと考えていたら、応仁の乱自体幾つの姿や流れがあるのか、訳が解らなくなるのは仕方ないことなのではと思われます。
( と、自分ながらの言い訳・・・)
しかし一方単純に言えば、将軍家と畠山家の内紛が、京と西国を巻き込んで大掛かりな戦を続けた、ということになり、それにより生活が困窮した土民国人が一揆を起こしたが結局弾圧された、ということに集約されそうです。
人類史上、或る一定の時代までは、特に傑出した権力者が存在していないと、内紛が始まり、それは戦いにまで進んで行く、という方程式が在るのでしょうね。
我が国と言う島にそのような方程式が一応無くなって(西南戦争を最後として)、日本はまだ150年も経っていないのですね。
永い歴史の中で権力争いの戦いが無くなってからは、ほんの一瞬の時と言えそうです。
そしてこの本の最後には一休さんのことに触れられていました。
一休さんが後小松天皇の子供だったということは(この本に寄れば)事実らしいですね。
しかし余り平穏な一生では無かったようでした。
という事で、応仁の乱は読み終えたということにしまして、次に進みます。
現在二冊の本を併読していますから、なかなか進みません。
進まないと言えば、映画の方も。 なにしろWBCが毎晩ありますので今晩からようやく集中して映画を見られるようになるようです。