「おい、いち、行けるか!!」 監督が突然振り返って一郎の顔を見た。

「はい!!」一郎は叫び、ベンチから飛び出した。 バットボックスから握りなれたバットを取り出すと、監督に一礼してベンチ前に出て素振りを初めた。

 

何故バットを振っているのか、一瞬考えた。 公式戦初めての指名だった。

 

~ 監督から呼ばれた、試合はえっと9回だ、ランナーは居ない、ワンアウトだ、・・0-5で負けている・・そうか俺は代打・・代打の声が掛かったのだ ~

 

何時もの基本も何もなかった、反射的に今の試合の状態を考えながら、ともかく自分の体がバットを振っていた。

 

5~6回ほど振る内、~ 何やってるんだ、もっと下半身で振れ!! ~ 何時もの基本を思い出し、下半身から始動するダウンスイングに替えて、気持ちも少し落ち着いてきた。

 

今まで夏の大会三試合、ベンチで試合を見てきて、自分ならこうする、こうしたいと思っていたことが現実になり、いざグランドに立つと何もかにもがフッ飛んで行って、今投げている相手チームのピッチャーの特徴などかき消えてしまっていた。

 

~ えーと、あいつはカーブピッチャーだ、ストレートも早い、俺のような右バッターの内角攻めが上手い、ということは・・、ええい、もうどうでも良いわ ~

素振りしながら頭をまとめようとするが、どうにもならない。

 

三年生になるまで野球部の補欠でやって来て、練習試合では三度代打でバッターボックスに立ったが、県の公式試合では今日が初めての出場だ。

 

「次のバッターは代打、鈴木君です」

風に揺れる場内放送の女性の声が、何時もと違って頭の上から聞こえ、鈴木という名が知らぬ他人のように思えた。

 

「思い切って行け!!」監督の声に背中をどやされ、足が二三歩進んだ。

前の田中は内野ゴロでツーアウトになっていた。

 

「ちきしょう、最後のバッターには成らんぞ!!」

審判に軽く頭を下げてバッターボックスに立った。

何度も夢見た動作だから、意外に自然にできた。

 

ホームベースの中央に軽くバットを当てて、構えた。

構えたら直ぐにボールが来たが、まだ空白な頭の中、審判の「ストライク」の声が遠くで聞こえた。

 

~ エッ、今のは何か・・カーブか、全然見えなかった、くそっ・・じゃ今度はストレートだ ~

ようやくピッチャーの全身が見えて、投球ホームがスローに見えてきた。

 

ピッチャーが投げた。ボールはストレートらしくピッチャーの手から離れて1mほどの所で消えた。

あとは勘でバットを振るしかなかった。思い切って腰の入ったダウンスイングで振れた。

 

「カーン」バットの真芯にボールが当たる心地よい抵抗が手に響き、ボールは勢い良く目の前の土を跳ね、ショートとサードの間に跳んで行った。

~ よっしゃー !!~  心で叫びバットを放ると一塁へダッシュした。

 

しかし一塁へ駆け込む前に一塁手のグローブへボールが収まり、「アウト!!」の審判の声が響いた。

観客の「サード良いぞー」の声と、ファインプレーに対する拍手が聞こえた。

 

一塁ベースを駆け抜け余力で走りながら、今踏んだ一塁ベースの角が目の奥に残った。

三年間で初めて踏んだ公式試合の一塁ベースだった。

今踏んだベースの角を100年忘れないような気がした。

 

走りながらベンチに戻るとき、聞きなれた声が聞こえた。

「イチロー!!良くやったー、良く・・・」

見ると母が立ち上がって泣きそうな顔で叫んでいた。

 

~ サードゴロでアウトじゃんか、何言ってんだか ~ 顔をそむけベンチへ走りこんだ。

「良し!!」監督が頷いて肩を叩いてくれた。

 

同じ補欠仲間でとうとう一度も試合に出れ無かった将平が、目を輝かせて「やったのぅ・・」と顔を覗き込んできた。

ベンチに座る間もなく、「よし、挨拶じゃ」監督の声が響いた。

 

相手チームが並んで待つ前に、仲間と揃って並んだ。 「ありがとうございました!!」

 

ベンチに戻りながら ~ これで本当に最後なのか、もう俺の野球は終わったのか、小学校から初めた野球がサードゴロで終わった・・・ ~

 

野球部員の間、悔しい思いしか無かったのに、三年間補欠で終わってしまった自分が、投球を初めて真芯で捉えた自分が、ここにきて何故か無性に誇らしく思えてきた。

 

ベンチ内の用具を片付けながら、なぜか笑顔が浮かんでくるのに、温い甘いような大粒の涙が頬から土間に落ちて行った。