或る文学全集の中の、福永武彦さんの「深淵」と「廃市」を読みました。

文中どちらも女性が大きな存在となっていまして、特に「廃市」は三人の女性物語の趣向です。

と言うことは、わたしにはそれ程関心の湧く主題ではありません。

 

しかし読みやすい文体ですから、最後まで読み進めました。

そして残念ながらこれといった感慨も残りませんでした。

しかしその前には大江健三郎さんの三篇を読んでいましたので、最後まで読めたということには一応の満足をしているのです。

 

つまり大江健三郎さんの三篇は何れも最後まで読めなかったのです。

大江さんの文を読む時には、おそらくこれも読めないだろうな・・・と思いながら読み始めますから、やっぱり・・・、となりまして別にガッカリもしません。

わたしには大江さんの文は理解できないだけでなくて、主題に入れ込めないものが多く、何時か何か良いものは‥と探してはいるのですが、特に期待はしていないのです。

 

過去にまともに読めた作品は、大江さんが芥川賞を受けた「飼育」と他に「二百年の子供」のみなのです。

半面エッセイや対談は読めるのですね。 対談が読めなかったら面白いでしょうね。

しかし活字中毒者はそのようなことは気にせず、偶然また巡り会うことがあれば読んで行きますから、それはそれで良いのです。

 

体力にしても読解力にしても限界というものが有るようでして、それを知ることも良いことのように思います。

これ以上はもうダメだ、自分はここまでだ。

と思えるぎりぎりの線の直ぐ内側まで行くことは、楽しいことでもあります。

そしてまた読解力はバーベルの重さと同じで、限界が明快ですからなかなか良いです。

87㎏までは持ち上げられるけど、88㎏はダメとか、Aさんの○○は読めるけど△△は読めないとか。

 

ただバーベルと同じで、余りに限界に遠い軽さの物を持ち上げるのはヤル気が削がれるようで、読書でも同じようなことが言えそうです。

その最もギリギリの線の内側の作品に行き着いた時には、とても幸せな感じになります。

わたしの場合、美味しいヤキメシを、残りを心配しながら食べている感じになる、と言って子供に笑われたことがありました。