わたしの生まれて育った家は、現在住んでいる家から歩いて15分ほどの所に在りました。
わたしが22歳の時に引越しをしましたから、わたしは当時大阪で働いている頃で、引越しの手伝いもせず、また生まれて育った家に心でお別れらしきことをすることもありませんでした。
引越しの後の最初の帰省の時、今度は本通りの〇〇停留所でバスを降りなさい。と電話で言われたことを憶えています。
わたしにとり故郷のバス停と言えば良く行った本屋さんの前であり、今度は僅か2~3か所駅に近いバス停ながら小学校の校区が違うせいもあり、未知の世界に降り立つかのような気分にさせられたものでした。
新しい家とそれにくっ付いた店は国道に面しており、以前は我が店の作業場が在ったり、また一部は畑を他人に貸していた広い場所です。
父親は自動車の便を考えて、昔ながらの狭い道路添いから広い場所へ移転する必要を感じての決断だったようです。
今でも昔住んでいた家の前の路は時々通ります。 信用金庫へ用事で行く時には他の路を通っても良いのですが、その路をなるべく通るようにしています。
以前弟が元気なころ「新屋の二階と瓦がそのまま残って居るわい」と話していましたが、正に今でも当時我が家では新屋と呼ばれていた離れの二階と、その上のコンクリの瓦は痛まずに残っています。
その残って居る新屋以外は、その前面の本家が駐車場に変わりまた横の部分は鉄筋の倉庫兼住宅のような建物になっています。
そして当時の我が家の隣の家は、そっくりそのまま残って居ます。 木造の昔ながらの家ですが、板に塗られた塗料の関係か板壁も玄関回りにも古さは感じられず、わたし達が子供の頃そのままの風情が残されているのです。
わたしの記憶の最古のものは、その隣の家の前で、斜め向かいの酒屋のおばさんと話した時のことなのです。
「〇〇ちゃん、幼稚園にはいつ行くの」 「さらいねん」 「ふ~~んそうね」
それだけのことなのですが、わたしは三輪車に乗り、隣の家の前の電柱に三輪車の前輪をコツコツと当てながら答えたことを割と鮮明に憶えています。
今考えれば多分「さらいねん」と言う言葉を親から聞いて憶え、それを他所の大人に初めて使ったということに、小鼻の膨らむような気分を覚えたからこそ未だに忘れないのではと思うのです。
その年が幼稚園へ通う二年前なら、我が家で犬を飼ったのは翌年に成ります。
わたしが犬が怖くて、路に犬が居たからと言って良く家に帰って来てたことを心配した母親が、幼稚園へ通園する前年から犬を飼い、わたしに少しでも慣れさせようと考えた作戦結果のようでした。
家の前の狭い道路に面した木の横椅子に二人で座り、母親はわたしを抱きかかえて「可愛いなぁ~可愛いなぁ~」と子犬を頬へ押し付けます。
わたしは火が付いたように泣き始めましたが、その内子犬がわたしの頬を小さい舌で舐めたりしますと「うん? 可愛いなぁ・・・」と、ついつい思い始めてしまいした。
しかし直ぐに泣き止むのも何となく自分に許せないように感じましたので、しばらく泣き真似をしていましたが、子犬の舌とその顔に誘われて、とうとう母親へ笑いかけてしまったのです。
子犬は柴犬の雑種でしたが、父がジョンと名を付け(今振り返れば雌犬だったのですが、当時はトムとかジョンが流行りの名でした)わたしが高校三年生になるまで生きていました。
ジョンは二歳位から当時としては当然ながらの放し飼いで、首輪は付けていますが鎖で繋ぐようなことは無く、夕方には家に帰り、余り物の夕食を摂って何処か土間の片隅で寝るのですが、ご飯にみそ汁を掛けた朝食を摂ると毎日何処へともなくタッタッタッタッと走って出かけて行きます。
街中でわたしに会うと尻尾を振ってじゃれついてきますが、わたし以外には決して近づきませんでした。
家の付近をうろうろしている時もあるのですが、若い頃は日中姿を見ることはほとんど無く、街中で保健所の犬殺しを見かけると心配になりましたが、ジョンは一度も捉まることなく夕方には帰宅していました。
少年時代のわたしと、14年間程お互いの意思を尊重した付き合い(早い話が放し飼いですが)が続きましたが、わたしが高校を卒業する前年の冬に店の倉庫の階段から落ちて死にました。
高校から帰宅するわたしを待って、父親と二人で海に流しに行きました。
今でもドッグランという言葉を聞く度、下町ドッグランへ出かけて行くジョンの後ろ姿が目に浮かびます。