五郎は歩き始めて5分程ですでに後悔をしていた。 冷房の効いた国鉄を降り、私鉄のホームの屋根の下に立った時には20分後の電車を待つことなく、次のやや大きな駅まで行けばよいと考え歩き始めたのだが、晴天の6月の光線は既に真夏の鋭さを帯び、先程から首周りには粘った汗がにじみ出てきて止まることがなかった。

 

見知らぬ静かな住宅地の中を、多分この方角だろうと次の駅を目指し角々を曲がり、半ば捨て鉢な気持ちで火照ったアスファルトを進んで行ったが、集合住宅群を過ぎて二階家の並ぶ角を曲がった時、ふと重たい空気が付近に沈殿しているかのような気配を感じた。

 

一人の若い男が、車道に足を投げ出し、歩道上に斜めにだらしなく横に成ったまま、缶ビールを美味くもなさそうに飲んでいた。

ズボンからはみ出した派手なシャツは胸元で大きく開かれ、日に焼けて痩せた胸に汗が光り、頬の削がれた顔には不精ひげの中に投げやりな表情が浮かんでいた。

 

五郎は横目でチラリと見て、足早に通り過ぎようとしたが恐れていた如く突然男から声が掛かった。

「おい、にいちゃん急いでどこへ行くんじゃ」 五郎は聞こえない素振りで足を速めたが、より大きな声で「なんじゃ知らんぷりか、まてよ・・」

と立ち上がる気配がして声が近寄って生きた。

男は空の缶ビールを五郎の足元へ投げると「おい待てと言うとるんじゃ、お前金を持っとるか」

五郎の正面に回ってきた男は、不敵な笑みで酒臭い息を吐きかけてきた。

 

「いえ持ってません・・」五郎は早くこの場を逃れようと、カバンを抱え、ぴょこぴょこと頭を下げて無意識に二三歩後ろへ下がった。

男は五郎の姿により不敵な態度を強め、「なんじゃこら、金を出せというとるんじゃ・・」と迫ったが、そこで五郎は怯えながらも走って逃げることを決断した。

ここはどうでも逃げなければ、お金は会社のものだし、相手は酔っ払いだから逃げおおせる可能性も大きそうだ。

子供の頃から徒競走は何時もビリから二番目だったが、最近は日曜に少しジョギングもしているから、相手の体格からしてもなんとか走りで逃れそうな気がしてきた。

 

「すみません」と弱弱しく頭を下げると、「ふん」と鼻で笑っている汗臭い男の脇をすり抜けるなり、全力で走りだした。

鞄を抱え革靴でバタバタと、自分ながら不格好な走り方だとは思いつつも、若さでは負ける気もしないので、後ろを振り返ることもせず走り出したが、「このやろう」と叫んだ男の足音は遠のくことなく、意外に力強く後ろから聞こえてきた。

 

男の手足は長かったが、五郎の足音よりテンポは遅ものの、4~50メートル行くうち、歩幅の広い足で着実に近づいて来るように感じられた。

五郎には、やはり子供の頃からの脚力に然したる進歩の無かったことが、この場にきて改めて感じさせられた。

 

どうしょう、このままでは追いつかれる・・・。 もう必死の形相で走りながら、五郎は千切れつつある思考を必死でかき集めながら考えた。

と、或る一つの思いが頭の中でポっと黄色の裸電球が灯るように浮かんできた。

起死回生の手はこれしかない。 遣ってやろう、こうなればもうこれしかないのだ。

やがて住宅地の下り坂に掛かった時、既に男の吐く息は間近に感じられ、五郎はついに破れかぶれの決意を固めた。

 

    五郎には中学生の頃仲の良い男子生徒が居たが、彼の名は小島靖典と言って幼稚園の頃からの友達で、家も近くの子だった。

やっちゃん、ごろちゃんと呼び合っていて、五郎は小さい頃はやっちゃんの家に良く遊びに出かけて行った。

やっちゃんの家に上がると、何本もの木々が座敷の上に林立していた。 それらの木々には脛毛が生えていて、二本は白いままのものだった。

そしてそれらの木々の上の方からは、野太い声が何時も聞こえてきた「おいチビ、友達と何して遊ぶんじゃ」「おいチビの友達、名前は何じゃ」

「ごろちゃんだよ、ごろちゃん行こう」 やっちゃんには年の離れたお兄さんとお姉さんが何人か判らないが居て、五郎たちは林の間を潜り抜けるようにして、外へ出かけていた。

 

小学校から中学まで、何度か離れたりくっ付いたりして二人の仲は続いたが、中学の三年生になり二人は同じクラスになってまた仲良く遊ぶようになった。

二人ともおとなしい性格で、他の生徒と喧嘩などはしたことは無く、五郎は勉強は嫌いで本ばかり読んでいたが、やっちゃんはクラスでも上位の成績を何時も維持していた。

二人は毎日休み時間には、まるで子犬がじゃれ合うようにしてローカで追いかけっこをしたりした。

「やっちゃん!!」とやっちゃんの斜め後ろから声をかけて指を肩の上に出していると、振り向いたやっちゃんの頬に指が当たり、やっちゃんが「こらー!!」と追いかけてくる。

 

そんな遊びを飽きもせず毎日やっていたのだが、ある日例によりやっちゃんに追いかけられている最中、五郎は廊下に落ちている鉛筆を拾おうと急に屈んだ時だった。

追いかけて来ていたやっちゃんが、空中を飛んで五郎の前方へ倒れ込んで行った。

廊下へ背中から激しく落ちたやっちゃんは本気で怒って飛び起きると、五郎のしゃがんでいる背中を両手で激しく叩き始めた。

 

五郎は意外な結果に叩かれながら「ごめんごめん・・」と謝り続けた。やっちゃんも気が済んだのか、「もうほんとに・・」とつぶやきながら足音高く教室へ戻って行った。

五郎は ~ やっちゃんを空気投げで投げてしまった・・・、やっちゃん投げだな・・~ と、やっちゃんにはとても気の毒ながら、一人で笑いをこらえ教室へ戻って行った。

 

 

五郎は走りながらも男の吐く息が耳のすぐ後ろで喘ぐように聞こえ、背中へ後ろから指のようなものが触った感覚が有った刹那、急にしゃがみ込んだ。

僅かながら下り道だから、五郎の体はしゃがみながらも前にのめり込み、持った鞄を無意識に頭の下に敷いて道路へ頭が激突するのを防いだものの、そのまま前方へ一回転していた。

しゃがみ込んだ時、背中とお尻の付近に何かが触った感触は有ったが、男が後ろから背中へ倒れ込んでくることは無かった。 五郎は道路から頭を上げ男の姿を探した。

道路の2メートルほど先に倒れた男は、上半身と下半身が捻じれたような姿で、顔は上を向いており、足の指だけ僅かに動いているように見えた。

 

五郎は激しく呼吸をしながら、男が息をしていることを確かめると、両足を持って道路の端の方へ引きずって行った。 五郎の顔の汗が男のズボンに滴り落ちた。

男は五郎を飛び越し頭から道路へと突っ込んで行ったようで、額の右片方と右肩に大きな擦り傷があり、目は開いているが失神しているようだった。

 

五郎は服を払い、鞄を抱えて息を整えながら、駅へと歩いて行った。 駅のトイレで汗を拭き、駅前の公衆電話から119番へ電話を掛けた。

「〇〇町の何丁目付近にけが人が倒れていました。わたし?・・わたしは通行人です」

今更ながら、やっちゃん投げの恐ろしさが蘇り、ホームのベンチにうつ向いて座ったが、急に手足が小刻みに振るえてきて何時までも止まることは無かった。

 

 

   やっちゃんとのことは大体事実に基づいていますが、他のことは全くの創作です。

やっちゃんはその後わたしと同じ高校へ入り、同じバスケ部に入りましたが、わたしと違い正選手となりまして活躍し、卒業後は有名大学へ入ってその後地元の高校の体育の先生になりました。

わたしが帰郷して家業を継いでからは何度か買い物に来てくれ、高校の木の椅子を廃棄するからと言って幾つか譲ってくれたことなどもありました。

 

ここ数年はしばらく姿を見ないので、お互いの共通の体育教師であった老先生に聞いたところ、八王子でしたか町田市でしたか、娘さんの家で暮らしているとのことでした。

運動神経抜群のやっちゃんでしたから、その後もお元気でやってることだろうと思われます。