( ✌︎'ω')✌︎ | 麺匠文蔵グループ~日本一への道~

麺匠文蔵グループ~日本一への道~

麺匠文蔵グループ。
長野県佐久市に展開中です。

こんばんは!

文蔵BLACKの中嶋デス!!
 (`・ω・´)

本日もご来店いただきありがとうございました!



花粉が相も変わらず
猛威を振るっております💦💦


朝は目覚ましよりもくしゃみで起き

昼は水分を摂った瞬間に鼻水へと変わり

夜は特にない

が連日続いており花粉症ノイローゼになる寸前でございます、、、



嘘です
花粉症ノイローゼなんて言葉はありません

ボブは元気です(´・ω・`)




さて!

限定らーめんの
《もやしあんかけらーめん》
が終わってから数日が経ち
今更かもしれませんが、、、

食べに来てくださってありがとうございました!

文蔵BLACKに異動して初めての限定らーめんでしたが沢山の方に食べていただいて嬉しかったです!

本当にありがとうございました!

また次回はもっとたくさんの方に食べてもらい喜んでいただけるように最高の一品を作りたいと思っておりますのでよろしくお願いします (`・ω・´)









さて!
明日4月10日(水)は
文蔵本店は営業日!
文蔵BLACK、文蔵臼田店は定休日となります!

明日もよろしくお願いします!









それでは!
おやすみなさい
( ˘ω˘)スヤァ…
























おまけ

ニュースでお札のデザインが変更されるということで話題となっております!

現デザイン

千円:野口英世
五千円:樋口一葉
壱万円:福沢諭吉


でしたが


新デザイン



千円:北里柴三郎
五千円:津田梅子
壱万円:渋沢栄一

に変わります!


んで

今回壱万円札に選ばれた
《渋沢栄一》
とは誰なのか???

と思った方もおるかと思います


そこで今回は
ボブ自家製タイムマシンで調べきましたのでお教えします!






渋沢栄一


 
渋沢栄一は
《日本経済の父》と呼ばれ

江戸時代末期1840年に
埼玉県深谷市で生まれる。

家は農家でありながら
染料の製造販売や蚕の絹を扱う養蚕業まで行う、いわゆる富豪農家に生まれる。


14歳の時
染料の仕入れを任されると
【武州自慢鑑藍玉力競】
と言うシステムを作り出す。
これはいわゆるランク付けで
染料の元になる藍の良し悪しで値段に差をつけることによって仕入先は他より高く買い取ってもらおうと競うように良質な藍を作る努力をした為に、結果的には仕入先全ての藍の品質を向上させた。

17才の時
年貢を納めているのにもかかわらず、必死に働いて稼いだお金をお偉いさんに理不尽に奪われてしまう(約6500万円)

これに不満を持ち
幕府転覆の計画を企てる

それに向けて多くの仲間や武器を集め、高崎城襲撃の計画を練るが仲間に説得され中止

しかし、この計画が幕府にバレてしまい渋沢は幕府から追われる立場となってしまう。

行く先がない渋沢を匿ってくれたのが、一橋慶喜こと
江戸幕府最後の将軍
徳川慶喜であった。

その後は慶喜の下で財務等の役職についていたが、1867年にあったパリ万博に派遣団の一員として参加した渋沢はそこで色々と衝撃を受けた。

電気、ガス、水道が発達し生活の質が向上しありとあらゆるものが機械化しており、フランスは日本と比べ物にならないくらい近代化していた。

それを見た渋沢は
「このままでは世界に置いてけぼりにされる。日本も早急に近代化しなければならない。」

そこから、日本の時代を大きく進めることになる。


・日本での【株式会社】を作るべくまず日本で初めての銀行。
みずほ銀行の前身である【国立第一銀行】を設立
そこで資金を稼ぎ、多くの会社を立ち上げた。

・近代化にガスが必要だと考え
【東京ガス】を設立

・これからは情報社会になっていくと考え、多くの人が新聞に触れることができるように
【王子製紙】を設立

・日本のセメント会社最大手
【太平洋セメント】

・交通の要所だった鉄道会社
【東急電鉄】
【秩父鉄道】 
【京阪鉄道】
を設立

・日本の三大高級ホテル
【帝国ホテル】

・日本最大の金融商品取引所
【東京証券取引所】

・繊維や織物を扱う紡績の最大手
【東洋紡績】

・ビール会社で有名な
【キリンビール】
【サッポロビール】

・お菓子で有名な
【明治製菓】

・ありまぁすで有名な
【理化学研究所】

などなど
生涯で建てた会社は大小問わず500以上あると言われています。


しかし、
作った会社の経営には殆ど携らず、経営権を人に渡した。

というのも
渋沢は決して儲け主義で会社を作ったのではなく、日本が発展するには民間が力を持たなければならないと思い、人々が平等に稼げる社会を作り上げることが渋沢が真に作りたかった未来であった。


更に経済だけではなく
社会活動にも力を入れており

・日本赤十字社の設立
キリスト青年会の日本窓口を設置

・これからは教育が必要と感じ
【一橋大学】
【東京経済大学】
【二松學舎大学】
の設立

・女性の社会貢献も考え
【日本女子大学校】
【東京女学館】
を設立
 
などなど
設立に携わってきた社会事業は600にもなると言われている。

日本を世界に浸透させようと
【民間外交】
を行なったのも渋沢が最初


そして、
1923年に起こった
犠牲者10万人を出した関東大震災時でも80才の渋沢は生涯で作り上げた経済ネットワークを利用し、政府が動き出す前に
仮設住宅、避難所、救命臨時病院、総合情報案内所、孤児院を設立。

更に
自分持つ土地や家を解放し炊き出しを行い
災害後援会を作り、義援金等の復興支援に奔走した。



そして、
1931年
渋沢栄一は91才で人生に幕を閉じた。

私利私欲に走らず、国の発展を考え続けた彼は生涯心がけた理念をこう言い残した



『正しい行いで得た富でなければその富を永続させることは出来ない』




 












おまけ

渋沢栄一の事を調べてからここに書き終わるまでに2時間くらいかかったので今回は終わりです💦💦

疲れた💦💦



    
















おわり
(っω`)