あの件が妹の病状にどう影響したかは分からない。

 

14時46分。

僕は六本木で行われるバーゲンセールの行列の中にいた。

バーゲンの開始は15時。

 

僕がいたビルが強固だったのと地下にいたせいで揺れはそれほど感じなかった。

長い地震だな、と思った程度だ。実際、行列にいた人々はせっかく並んだ行列を

崩すのが嫌で、誰一人、地下へと続く階段から避難しようとしなかった。

 

2011年3月11日、東日本大震災。

 

誰となくワンセグでテレビを見始め、それが瞬く間に行列に並ぶ、全ての

人に伝染した。どうも東北で大きな地震が起こったらしい。

バーゲンは中止になり、僕と友人は帰途につく。

 

この頃はまだ、対岸の火事で「バーゲンが中止になって残念」くらいに

思っていた。現実を直視するのに相当な時間がかかった、と思う。

 

地下鉄は止まり、バスも動かず、タクシーも来ない。

六本木から僕が当時住む恵比寿まで1時間かけて歩いた。僕たちは酷い目にあったと

思っていたが、だいぶましな方だったということが数時間後に分かる。

 

妹のことが一瞬頭をよぎったが、嫌な予感が想像通りにしか起きない、

そう考えたら妹の事を考えるのを止めた。

妹は後々、何度かボランティアに行きたいと訴えたが過保護な母もさすがに

死守した。医師もはっきり禁止したという。自分探しや自己満足のために

行くべきところではない。

 

逆に僕は仕事柄、地震で被害にあった地域を多く回ることになった。

4月7日、最大余震といわれる6強の地震が発生した時、僕は

6強を記録した栗原市のホテルに泊まっていた。建物が大きくゆがみ

右のものが左にあるような、自分の体すら大きくゆがんでいるような錯覚に

襲われた。立っていた僕はよろめくようにホテルの床に這いつくばる。

6強ですら心地がしないのだから本震のときはいかばかりか?

 

ナビにはあるはずの道が消え失せ、夜、車を走らせると廃墟しかない街並は

ブレアウィッチさながらの恐怖を醸し出していた。

 

岩手で出会ったおばあちゃんは一人っきりになっていた。僕はあれから

1年に一回、そのおばあちゃんに会う。おばあちゃんは僕が来るのを

いつも喜んでくれる。毎年、インスタントコーヒーにポットのお湯を

コポコポいわせながら入れ溶かし、大手メーカーが販売している

大量のレーズン入りのロールパンでもてなしてくれる。正直これが美味しくない。

 

出会った当初は背後に7つ並んだ位牌を背負って泣きながら「食べな食べな」と

話す、おばあちゃんを前に残すわけにもいかず必死で飲み込んだ。

かける言葉すら見当たらず、ひたすらインスタントコーヒーと

ロールパンを一生懸命食べていた。

 

昨年、ようやっと「レーズンがあまり好きじゃない」って言うことができたが

相変わらずおばあちゃんはインスタントコーヒーとロールパンを出すので

諦めた。

 

5年経った今、僕とおばあちゃんの会話は

やっと普通の世間話のようだ、と思える。

 

しかし今もおばあちゃんに聞けないことがある。

7つの位牌は全ての方が地震で亡くなったわけではないらしい。

たぶん3人の方が地震で亡くなった。

しかしおばあちゃんの方言が強すぎて、誰がどこでいつ亡くなったのか?

分からないのだ。今でも「普通の世間話」の6割は理解できない。

 

 

病気の妹はきっと可哀想なのだろうって思う。

いっぽうで地震で思わぬ生活を強いられている人を目の当たりにする度、

僕は妹の行状に腹を立てる。もっと快く妹の心配をしてやるのが

大人の対応だろうが、できない。

 

妹にその感情を見せる事はないが、心の奥底でドロドロと

マグマのようなものが僕にもふつふつと沸いている。