妹はハンダの腕を握りしめていた。

英語を話すことの出来ない僕はこの時、ひと言、

 

「Please!!」

 

って言ったと思う。その言葉を合図にシンさんが連れてきたインド人たちは

ハンダを押さえつける。ハンダの手はあえなく妹から離れた。

病院から来たスタッフは当初ためらっていたが、僕が妹を押さえつけるのを

見るやいなや一斉に飛びかかるように押さえつける。僕を。

 

僕を!?

 

コメディー映画じゃあるまいし、なんなんだ!?この間抜けな展開は!

妹が走り出そうとした瞬間、シンさんのお兄さんが妹の腕を掴む。

 

「違う!違~う!ミステーク!!」

 

屈強なインド人に押さえつけられた僕が怒鳴り散らす。

シンさんもヒンドゥー語で彼らに怒鳴る。ハッと顔を見合わせた病院の

インド人スタッフはシンさんのお兄さんと格闘を続ける妹に飛びかかった。

 

救急車のバックドアが開き、6人掛かりで妹を車内に押し込もうとする。

端から見ていたら日本人女性を拉致しようとしているインド人の

集団にしか見えない大捕り物だ。妹はバックドアの縁を掴み抵抗する。

その指を僕が一本一本はがす。昔、僕が触るのが好きだった、

生まれたばかりの妹の指の感触はもはやない。今思い出しても悲惨な体験だ。

 

妹は抵抗むなしく救急車へと押し込められる。救急車には病院スタッフの他、

僕とシンさんが乗り込む。山田さんと医務官は公用車だ。

バックドアが閉まるとその向こうで押さえつけられたハンダが追いすがるように

こちらを見ている。中島みゆきの「世情」が僕の頭の中を駆け巡る。

 

救急車が移動中、当初、妹はインド人スタッフに英語と日本語を交え

いろんな説得を試みた。

 

「えん罪だぁぁぁぁぁ!」

「この兄を看てあげてください!病気はこの人!」

「私とこの兄とどちらがおかしいと思えますか?」

 

どうみても妹がおかしいと思うが、最初僕を間違え押さえつけられたことを

考えるとシンさんがいなければ全く自信がない。しかしインド人スタッフは

妹の問いかけにみな同じ笑顔で反応すらしない。もう、誰もが誰が病気か

分かっていた。

 

妹は諦め体育座りをし突然Amazing Graceを歌い始める。フルコーラスだ。

Amazing Graceは黒人奴隷制度に対する批判と、

にも関わらず全ての人に許しを与えた神に対する感謝を歌った曲だと聞く。

微妙に今の雰囲気に合致しているような気がして車中が沈痛な心持ちに

させられる。しかし移動は30分以上あった。彼女はその間ずっと歌っている。

沈痛な心持ちが気味悪さへと変わる。

 

実は僕はこの時初めて彼女が病気であると心の底から確信した。

心のどこかで精神疾患とは日本語のコミュニケーションもままならない

受け答えの出来ない人と決めつけ、かろうじて受け答えが成立していた妹を

「もしかしたら病気ではないかもしれない」と思いたい願望と不安がどこかにあった。

しかしエンドレスのように続くAmazing Graceは妹が病気であると

確信させるに足る充分なインパクトがあった。

 

そして救急車が病院に着いた。