(1)徳川慶喜が条約に源慶喜とサインした
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の第22回で、パリ万博と同じ年、1867(慶應3)年に日本デンマーク修好通商航海条約を締結するのですが、条約の末尾に徳川慶喜が「源慶喜」と署名したシーンが印象的でした。
なぜ徳川慶喜ではなく、源慶喜と書いたのか、その理由について今回は考えてみたいと思います。
(2)徳川氏は本当は幕府を開くことができなかった
徳川はもと松平と称し、三河の土豪で、源氏と縁もゆかりもありません。
しかし、征夷大将軍になって幕府を開くのは、武家の棟梁として源氏の血を引くものだけに許されている格式と伝統があります。
そこで、徳川家康は金を払って新田氏の系図を買い取り、自己の祖先の系図に継ぎ足したのです。
(この事実は大学院の教授から私が直接教えていただきました)
新田は源氏だから、これで、幕府を開く大義名分ができたというわけです。
このような理由で、徳川の本姓は源ということになり、一応、系図の上では徳川慶喜が源慶喜ということになります。
しかし、この名乗りが用いられる機会は限定されます。
第一に朝廷内の任官などの際に用いる場合。 第二に対外的な名称で用いる場合。
第二のケースは日本の朝廷を代表してという理由のほかに、いわばナショナリズムの意識が反映されているものとも考えられます。
今回は、この第二のケースについて考察してみます。
(3)対中国外交の伝統
ところで、「源慶喜」の読み方は、私見では「みなもとのよしのぶ」ではなく、「げんけいき」です。
実は、将軍が中国などの対外外交で国書を送るときには、伝統的に「源」姓を自称しました。
日明貿易で、明の永楽帝が室町幕府第三代将軍の足利義満に対して送られた国書には、義満を「日本国王源道義」と記しています。
これは、中国語ですから当然「源道義」は「げんどうぎ」と音で読むべきです。
また、義満は永楽帝に対しての返書に「日本国王臣源」と自著したことも有名です。
こちらも「源」は「みなもと」ではなく「げん」です。
足利義満の足利氏も(こちらは正式な)源氏の血を受け継ぐものですから、本姓は源ということになります。
ここで、注意するべきことは、一文字の姓を名乗っているということです。
これは、「李」「周」「毛」などというような中国風の名乗りと考えてよいでしょう。
5世紀、「宋書」倭国伝などの中国の歴史書には、倭の五王の名前が見えます。
五王とは、讃・珍・済・興・武の五人の王のことで、これはいずれも日本の天皇(当時は大王号を使用)が中国風に名前を変えた名乗りになります。
倭(日本)では、対中国外交の場面では、伝統的に一字の名前を名乗ることになっていました。
これは、中華文明のなかの礼儀というよりも、中国の皇帝を意識した一種のナショナリズムの表れと考えてよいものでしょう。
(4)一字姓はナショナリズム
翻って、源という姓を考えてみると、面白いことに気づきました。
徳川氏や足利氏が称した源氏はいわゆる清和源氏の流れを汲むもので、清和天皇の孫の源経基を祖とします。
源経基の父貞純親王は清和天皇の子どもで、経基も本来は皇族にあたります。
天皇の子孫をすべて皇族待遇にすると膨大な人数になり、経費もかかり、いろいろと支障をきたします。
したがって、ある時点で、皇族の籍からはずして、新しい姓を与えることになります。
これを臣籍に下る、といいます。
興味深いのは、源や平、橘など、古代に臣籍に下った皇族にはいずれも一字の姓が与えられていることです。
一方、藤原や菅原などの皇族出身ではない貴族の氏は2文字であるのと対照的です。
こうした一字姓は中国を意識して名付けられたと考えられるのです。
これは一種のナショナリズムの表れといっていいかと思います。
このような背景の下でもう一度、冒頭に紹介した「源慶喜」というサインを見てみます。
幕末、日本はペリーの砲艦外交で不平等条約をアメリカなどに押し付けられ、攘夷の嵐が巻き起こります。
その発生源のひとつが水戸藩であり、徳川慶喜は最も過激な攘夷論者であった水戸藩主徳川斉昭の子どもになります。
その慶喜が条約に「源」とサインしたことに、天皇や将軍など日本を代表する盟主が、代々、外国に対して一字姓で対してきたという自負、プライドを読み取る、というのは穿ちすぎでしょうか。
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