風邪をひいたおじさんの晩餐
先回、スタート・ブログで、BONESについてつぶやいて、後で読み返して見ると、言いたかった事は変わらぬものの、その時の気分で表現が随分違うものだと改めて気がついた。もし単純に2方向に分けるなら、攻撃的な気分の時と、守備的な心持ちの時?私は今、風邪真っ盛りで、熱に悩まされながら自宅に持ち帰った仕事に手がつかず、この記事を書いているが、まだ右か左かさだかでない。
今日は「THE SHIELD」の米国版ド演歌刑事ドラマが最初に思い浮かんだ。移民の貧しさと犯罪の町でボス面をしている、悪徳刑事チームの非道ぶりと、内心の後ろめたさから発する赤ひげ先生ばりヒューマニティーの並存が「売り」なのだが、それがド演歌と称する所以なのだが、ちっともモラル違反切符を切る域には達していない。
ところが、類型的な人間描写・ストーリーも、なぜか日本のドラマでは及びもつかない瞬発的な刺激を与えて、微弱な「生きる」糧となる電流を視覚的に体内へ流してくれる。海外ドラマへのこだわりがあるとすれば、こだわりの理由の一端を、自身が解読したくなったからゆえ。微弱電流を発しなくなった日本のあらゆるメディアに慣れすぎた日本人の一人として、攻守ところを変えながら、つぶやきを発信していきたいと、微かに心決めているようだ、私は。たとえ粉飾されていようとも、ドラマを通して移民とプアな白人を眼前にしている時、現在の日本人の心の貧しさと生活の苦しさを、典型としてさえ、描けない・興味をもてない創作者は、すでに要を見落としている。
それはできることなら人の役にたって、その対価として初めてご飯が食べられるという、いたって当たり前のことが、ものづくりの構成要因から除外されているから。背に腹は替えられない現実がごく当たり前となる社会が、待ったなしに迫っているにも係わらず。その現実に何見るか?何を見たいと思うか?何を見せたいと思うか?
BONESの平凡さえ安らぎ
「シールド」の1stシーズンを続けざまに見終わって、米国版ド演歌を堪能した後、次の1本に渇望しているつぶやきの壮年は、骨女と筋肉マンの甘ったるいパートナーシップに辟易することを承知しながら、なぜか「BONES・骨は語る」と、対話している自分に、半ば茫然としている。公然猥褻純情ドラマと名づけよう・・・などと、あらぬ想念を抱きつつ、そういえば、主人公の男女二人の肉欲と愛憎を逆手に取って、キスさえしない設定自体、やはりひとつのアイデアであり、その自虐的な関係を心地よいと感じる自分と米国人視聴者を比べてしまう正統な神経自体に、今いる母国の比べる意欲さえわかないTV化した現実の圧倒的形式主義が、たぷん私の安住世界を侵食し続けてる日常と結びついて、今夜も眠りをいや増して妨げていく。
