この世に生を受けて
78年と
半年近く
こんなに
辛い年は
ありませんでした。
今年に入って
妻がかなり重篤化し
1月
24日
ついに
帰らぬ人となりました。
そしてよりにもよって
あくる日の夜
妻のお通夜の終わった時に
母の
死亡を知らされました。
その前に知らせが来ていたのを
周りが
通夜の終わるのを待っていたようです。
母は
満99才
3月8日が
誕生日でしたから
もう少しで満100歳
だったのに
すべては運命と
思いながら
世の中の無常を憂いつつ
母の
入っていた
施設に車を走らせました。
いくと
施設の皆様が
母の部屋に
手を合わせにこられて
最後の別れをしてくださいました
すごく
母のことを
愛し
涙していただいたこと
ありがたく
お礼を申し上げて
母の
遺体とともに
施設を後にいたしました。
2日続けて
死亡届を書いて
それからは
一体
何をどうしたか
妻の葬式
母の葬式
2人とも
小さな箱に入って
しまった時
死の現実と向き合うという
ことと
同時に
死
というものは
亡くなった本人よりも
生きのこっているものが
しなければいけないことに
振り回されるという
現実に直面いたしました。
喪主として
さまざまなことを
即決しながらも
先のことを同時に考えるという
今までいかに
人任せで
いたか
全て妻に任せっきりだったので
まるで竜巻に巻き込まれるように
巻き込まれていったのです
死
は
死んだ人よりも
生き残った人がその死を受けとめるものだなぁと
つくづく
思いました。
もちろんこの世を後にするものの
無念は
量り知らないものがありますが
死
と
直面して
悲しみの
涙を流している
のも
束の間で
その後のことは
あまり覚えていないほど
雑事に追われました。
妻の亡くなる前日
狭山市のさやかホールで
落語会を終えて
入院中の
妻を見舞いましたが
当然コロナ禍で
対面ができないのを
頼み込んで
なんとか
むこうも重篤の度合いを知っていたのか
そっと病室に
案内してくれました。
薄暗い
病室で妻と
対面した時に
命の炎が
長くないことを悟りました
62歳で亡くなった友人と同じように
こめかみのところが
痩せて
まるで骨に引っ付いているような感じだったので
それを見て
愕然としました
医学の心得は全くありませんが
僕は
最後かもと察して
携帯の録音のスイッチを
そっと入れました
妻の
言葉の始まりは
ごめんね
でした
何がごめんなのか
よくわかりませんし
その後何を話したのか
覚えていません
まだその録音を
聞けずにいます
そして
あくる日
病院からの知らせで
子供たちと
駆けつけまして
最後を看取ったというわけです。
それからは
通夜
葬儀
通夜
葬儀
とにかく
とても
悲しんでいるまもなく
こんにちまできたというわけです
この間
落語だけは
手を抜かずにと
この一年
必死に取り組んできましたし
自分なりに
それなりに満足のいく
結果を残せたと自負しております。
色々
あって
悲しんでいるまもなくここまでこれたのも
落語があったからで
落語に打ち込むことで
辛いことを
忘れることができました。
しかし
僕1人では
乗り越えることは
できませんでした。
支えていただいた
よしもとの会長さん
社長さん
現場のマネージャーさん
そして
いろいろおそわり
手を貸していただいた
友人たち
また
先輩の皆様
そして
毎日の
グループラインで励ましてくれた
弟子さんたち
そして
ヤングタウンを始めた頃から
応援してくださっている
ファンの皆様
そして
なによりも
客席で笑っていただいて
励ましてくださった
お客様
ほんとうに
お客様に助けていただきました
心より
御礼申し上げます。
以前から
この
ブログの最後は
皆様への感謝の気持ちを
述べたいと思っておりました。
今後
どんなことがあっても
怖いものはないし
ブレずに
ひとずじの道を
芸道を
桂文枝の
代々の
文枝に恥じないよう
必死に
頑張ります。
そして
おちついたら
僕の
次なる夢に向かって
歩みを止めずに参ります。
かわらぬ
ご贔屓を
賜りますよう
よろしくお願い
いたします
本当に
大変だったこの一年
ささえてくださいまして
心より
御礼申し上げます。
ありがとう
ございまして。
この一年のこと終生
忘れずに
精進して参ります。
本当に
皆様
ありがとうございました。
六代 桂 文枝拝