転がり跳ねる金属の音が響いた。
「いらっしゃい」
 マスターの声が続く。
 乾いた季節に、暖かな場所で聞くカウベルの音はとてもいいものだ。
 ここみたいな喫茶店のドアには特によく似合うと思う。
 若いカップルが入ってきた。二人とも大学生風だ。
 ふと、自分があのくらいだった頃を思い出す。
 ずっと研究に明け暮れていた……と思う。詳しく思い出せない。ほんの四年ほど前のことなのに。一年一昔(いちねんひとむかし)という奴だ。
「お好きな席へどうぞ」
 マスターに促され、カップルは手近なカウンターに並んで座った。
 二人して店内を軽く見回している。
 この店に来るのは初めてだろうか?
 『あなたたち、いい店見つけたよ。おめでとう』と内心つぶやく。
 ここは、わたしたちにとっては既に馴染みの店で、今日のドライブの目的地でもある。

 座る場所もいつも同じ、海に近い窓際だと決めている。いまのところ、不思議とこの席に先客がいたことはない。
 テーブルの配置が広めに取ってあって、カウンターが八名、四人掛けの四角テーブルが二つだけしかない。それとて、全部の席が埋まることなど無いのではないかと思える。
 海辺にぽつんと建っているこの喫茶店はいつもそんな調子なので、よく潰れないものだなと感心する。余計なお世話だと思いつつも、ついつい経営事情が心配になることもしばしばだった。
 しかし、今のところ、潰れるだとか客の入りが悪くて困っているだとか言う話をマスターから聞いたことはない。
 チェーン系じゃない喫茶店は、案外ねばり強いものなのかもしれない。
 店内は全体的に焦げ茶色の雰囲気。都市部のテナントに入っているような洒落た店ではないけど、ごく標準的な喫茶店のイメージだ。
 わたしたちの親が生まれたかどうか前、昭和という時代があったらしいが、その頃の建物なのだという。
 プラスチックのメニュー立てに挟まれているリストに目を落とした。
 まず一目で分かるのが、コーヒーの種類の豊富さ。
 様々なコーヒー豆を、ドリップ式、サイフォン式、アイス、ダッチ(水出しのことだ)で楽しめる。コーヒーよりは種類が少ないけど、手作りのケーキや軽食もある。個人的な目玉は『ナポリタンスパゲティ』だ。
 今時、これが食べられる店は珍しいのではないだろうか?
 前に一度、興味本位で注文してみたことがあるけど、生まれて初めて食べる味だった。マスター曰く、タマネギとピーマン、ベーコンをフライパンで炒め、それに茹でたパスタをケチャップ和えにしたものを加えて、更に軽く炒めるのだそうだ。
 この、パスタを炒めるという部分が明らかに普通ではない作り方で、定法から逸脱している。これが百年近く前に流行した料理だというのが驚きだ。旧世紀の味……というと大げさだろうか?
「キョーコ、メニューになんか勉強になることでも書いとるん?」
 ヒトミに呼ばれて我に返った。
 知らないうちに真面目な顔になっていたらしい。
「えっと、前にね、ナポリタンを食べたときのこと思い出してたの」
「ああ、ナポリタンなあ! けったいな味で美味しかったよなあ!」
 うん、と腕組みしながら頷くヒトミ。
 ”けったいな”という表現と”美味しかった”という肯定的な表現が今ひとつわたしの中で結びつかなかったが、楽しいから良いと思う。
 ヒトミはいつも言葉の使い方が面白い。
「でも、今日はコーヒーだけやろ? もう決まった?」
「あ、うん。マスター! ブレンドをドリップで下さい」
「僕はブルーマウンテンをサイフォンで」
「うちはカプチーノ」
 それぞれがカウンターに向かって注文を投げかける。この店に、ウェイターやウェイトレスはいない。コーヒーを淹れるのも軽食を作るのも、全部、五十過ぎのマスターが一人でやる。
 勿論、一人でやっているから出てくるまで時間も掛かる。その待ち時間が楽しめない人間は、この店に来なくて良いです。つい敬語になってしまいました。
「このお店は、ちゃんと淹れてくれるから美味しいよね」
 そういいながら、コウイチロウは煙草に火をつけた。
 ヒトミは窓の外を、ほおづえをついて眺めている。
 店内にコーヒーの匂いが少しずつ満ちてくる。

「あ、すごい。キョーコ、コペンやで」
 ヒトミが身を乗り出して、玄関側を指さした。そちらを見ると、店の駐車スペースに、オープンにした黄色いコペンが停められているのが見えた。
 四十年くらい前に発売された車だ。
 二人乗りの軽自動車で、電動で開け閉めできる屋根を装備した変わり種のライトウェイトスポーツカーだ。今ではすっかりレトロカーの領域に入っている。
 レトロカーという意味ではわたしの乗っている車も相当にレトロだけど、車の格が違うというか、単にわたしがメンテナンスをしていないだけというか、雰囲気も見た目も全然わたしのほうが負けている。
「ホントだ~。あれって、さっきまで無かったよね? ということは……」
 先ほど入ってきたカップルのどちらかが所有者ということだ。
 カップルのほうに目を向けると男性のほうと目が合い、会釈してくれた。
 コペンを見て騒いでいるのがバレているようだ。
 わたしも会釈を返す。
「コペンのオーナーの方ですか?」
 思い切って訊いてみた。
「残念。彼女のほうだよ」
 さわやかな笑顔で答えてくれる。それに応じて、横に座っている女性がわたしに向き直り、微笑みもせずに会釈してくれた。わたしもそそくさと会釈を返す。
「あ、ごめんなさい。お邪魔しちゃったみたいで……」
「いやいや、そんなことありませんよ。好きなだけ見て下さいね」
 彼女さんは既にこちらに興味を失ったらしく、カウンターに向き直してカップを口につけていた。
「ありがとうございます」
 二人の時間を邪魔しちゃったかも、と反省しながら会話を終えた。
「キョーコがあんな車乗ったら、嬉しがってすぐ事故るんちゃうん?」
 ヒトミが笑いながら不吉なことを言う。
「大丈夫よ。上手にオフセット衝突するから」
「僕をそんなに亡き者にしたい、と?」
 コウイチロウが苦笑しながら言った。
「ううん。セルボを廃車にしたいだけ」
 笑いながら、そう答えた。
 セルボ・モードは愛車だけど、廃車にしたいというのは本当だ。
 あの車は二人の想い出で荷物がいっぱいだから、いっそのこと、車ごと潰れてしまえばいい。
 そんな風に、投げやりに考えていた。


To be continued...



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 足が弱いなあ、と思いながら車を走らせている。
 この場合の足とはサスペンション(車体を支える部分)のことで、それが弱いと言うのは、クッションとしての役割が弱くなっていることを意味する。
 新車の時はきっとちょうど良かったはずのサスペンションだけど、残念なことにこれは中古車。しかも10年以上も前のもの。とうに部品は傷んで、へたってきているのだ。
 こうなると、少しのデコボコを拾って車が盛大に上下に揺れて、進路も安定しない。
 このままだと危険だから、いつか、もっと硬いスポーツサスに換えよう。
 ……そう思いつつ日々スピードを出している。自殺志願者みたいなものだ。
 少し楽しくなる。
「やっぱり足回りが弱いね」
「そうですね」
 彼の言葉に答えながらステアリングを切る。
 一応、ストリート走行用のタイヤを履いているものの、軽自動車なので普通乗用車より細いタイヤしか選べないのでグリップが弱い。高速でコーナーを曲がると、車体が滑り出しそうになる。
 いまも、少し、いや、ちょっとだけ、危なかった。
「わっ、怖いっ! 怖いっ!」
 海沿いに南北に延びたこの府道は、ワインディングもけっこう楽しめる。
 後席で左へ右へと揺れて、そのたびにシートベルトに止められて呻くヒトミがミラー越しに見えるが、もちろん、見えなかったことにしている。
 ちなみに、わたし達はシートベルトだけでなく、バケットシート(スポーツ走行用)に座っているので少々の揺れにもへこたれないし、自分はもとより、彼もわたしの運転に慣れている。
「提案! 安全運転やないとアカンとウチは思います!」
 狭い車内の中、器用に挙手してヒトミが提案した。
「そう? これでも十分に安全だよ?」
「それは比較の問題だね」
 更にアクセルを踏み込んだ。
 ターボが全開になり、スピードメータはみるみる上昇。
 景色が流れていく。
 右手には延々と海岸線。左手には田園風景。
 綺麗だ。
 エンジンもいい音を立てている……焼けつきそうな気もする。
 車体はガタガタと絶え間なく微振動を繰り返し、ヒーターをオンにしたわけでもないのに、エアコンの噴出口から熱い風が吹き出してくる。
 軽自動車の限界かもしれない。
「警察に捕まるやん!」
「大丈夫。いいナビを積んでるから」
 奮発して買ったミコダ社の新型だ。ナビだけど、地図と一緒にパトカーの位置までリアルタイムに表示されるオプションもつけている。近づけば、無線もデジタル解析で傍受可能だ。
 その画面には、自分の車を中心に、右側に青い海。左側には建物がないことを示すマーク。見えている風景と全く同じ。勿論、パトカーはいない。
「それでもあかんて! ぶつかったら死ぬて! 軽やから危ないて!」
 当然、おんぼろの中古軽自動車にエアバッグなんか付いてない。ABSもない。
 ぶつかったら間違いなく心中だ。
 彼と無理心中したところで嬉しくも何ともないが。
「大丈夫。ちゃんと助手席側でオフセット衝突するから」
「僕は十字架を切っておくべきかな?」
 隣で彼がうそぶいた。
「あなた、無神論者でしょう?」
「無神論者にも信じる物はある」
「そこ、意味わからんこといっとらんでスピード! スピード!」
 遠くに十字路が見えてきた。そこを右折すると、今日の目的地に到着だ。
 しかし、信号は無情にも赤。
 ゆっくりとブレーキを踏み込んだ。
 徐々に景色が減速していき、やがて止まる。
 止まらなければならない不自由。
 このまま車を降りて飛び立てない不自由。
 飛んでいくための羽は、遠い遠い祖先が『自由なんていりません』と言って引っこ抜いてしまった。もう、人類は後戻りできないのだ。
 進むしかないのだ。


To be continued...



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 臨海タウンを通り過ぎて大きな橋を渡ると、左手にアウトレットモールが見えてきた。
 もうすぐバーゲンの季節だ。気が向いたら来よう……そんなことを考えながら前を通り過ぎていった。アクセルを緩めもしない。今日はここには用事がない。
 ここへは何度か来ているけど、車で前を通るのは初めてだった。
 まだ車がなかった頃、臨海タウンからバスで買いに来たことがある。神鳥市から臨海タウンまでは電車で五十分。今考えると、馬鹿馬鹿しい行程だと言える。
 でも、当時はとても楽しかった。それだけは覚えている。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「日曜日は、臨海アウトレットでバーゲンだね」
 冷やしうどんを食べながら、紘一郎が言った。
 彼の好物だ。学食で、夏はこればかり注文している。
「あ、オリーブのバッグ欲しいかも」
「僕もスーツを新調したいな……」
 彼がスーツといえば、いつものごとくポールスミスだ。スーツが似合ってはいるけど、たまにはもうちょっとラフな恰好もして欲しいと思う。
「まあ。コウイチロウだけ、景気がいいのかしら?」
「生活費を削った贅沢な趣味だよ」
「わたしへのプレゼントは無いの?」
「まあ、考えておくかな」
 期待しておく。
「この暑いのに、スーツなんか買わなくてもいいじゃない」
「暑いとかそういう問題じゃないよ。仕事の時にしかスーツを着ないような人間は、スーツの意味合いを理解していない浅ましい連中だ」
 彼は、こういう変な人だ。
 鍼灸師で、なんと、気功治療まで出来る。
 そして、スーツが普段着だという男の好物は250円の冷やしうどんだ。考えるたびに笑い出しそうになるので、最近はシナプスの伝達路からスルーして、考えなかった事にするようにしている。
 このスタイリッシュなスーツに冷やしうどんというのは、いかにも似合っていないように思えるが、不思議なことに紘一郎だと『様』になる……えこひいきかもしれないけど。いや、きっとえこひいきだろう。彼は格好いいのである。うん。
「きっと人が多いよ。朝から並ぼうか?」
「じゃ、7時くらいに出発?」
「あり得ない。僕が起きられない」
 ……自信満々に言わないで欲しい。
「じゃあ……前の日からうちに泊まっていくとか」
「うん。そうするかな」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「コウイチロウ」
「なに?」
「今度、アウトレットに行かない?」
「スーツは間に合ってる」
「コウちゃん、スーツいっぱい持っとるもんなあ」
 ヒトミが笑いながら言う。
「スーツを買うとかじゃなくて、単に買い物とか」
「うーん。別に、そういう気分じゃないな……」
「えー。ええやん?」
 わたしはもう何も言う気がなくなった。自分自身、買い物に行きたいわけではない。単に、言ってみただけだ。彼の反応が見たかっただけ。予想通りのリアクションに、拍子抜けした。
 大体、彼と二人で買い物に行っても、もう楽しくないだろう。
 ヒトミと二人でいるほうが楽しいかも知れない。
 でも、ヒトミは彼を誘うだろう。三人で、と。
 そんなのは、ごめんだ。



To be continued...


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 空色は青。
 長いカーブを曲がりきると、立ち並ぶ煙突の隙間からくすんだ海が顔を覗かせた。
 その上には空の切れ端が精一杯に広がっている。そこに夏空の名残は欠片も無く、雲の色も形も秋のそれに変わっている。
 特に、何の感慨も覚えない。だけど、この中途半端な季節はそんなに嫌いではない。
 人間に似ているからかもしれない。
 助手席にはコウイチロウが乗っていて、窓の外に向かってタバコを吹かしている。時折舞い込む風が、タバコの煙を車内に運んでくる。
 最近、あまり嗅ぎたくないな、と思う匂いになりつつある。
 彼の匂い。
 いっそのこと、禁煙車両にしてやろうかとすら思う――まだ今のところ、そうする決心はつかない。理由は分からない。分かりたくない。
 アクセルを少し踏み込んだ。エンジンが唸り、ターボチャージャが回り出して車は快調に加速し始める。
 エキゾーストノイズが一段と高まり、窓から入り込む風も強くなった。
「う~ん……海の匂いって感じやね!」
 後席から身を乗り出して、ヒトミが嬉しそうに話しかけてきた。
「でも、けっこう油臭いよ」
 わたしには、潮の匂いよりむしろ油の匂いのほうが気になった。今走っている臨海線は工業地帯に面していて、当たり前だけど、空気はひどく澱んでいる。
「ええやん。潮の匂いもするやん。臭いだけよりマシやんか」
「においなんかない方が良いよ……」
「気分転換やて、気分転換!」
 いつだったか、『窓は開けるためにある』と言ったのはヒトミだった。
 分かるような気がする。
 いつでも前向きなヒトミが羨ましい。
「ねえ。ちょっと、音楽を掛けていいかな」
 突然、彼が言った。
「どうぞ」
 彼がオーディオのパネルを操作する。ラジオから昔の流行り歌が流れ出した。
 しばらく、会話も無く歌に聞き入った。
 高校時代に流行っていたラブソングで、歌詞は今聞いても輝きを失っていない。
 でも、この歌のように素直な気持ちで人に接することは、もうできないだろう。
 純粋ではいられない。でも、認めたくない。
 美化された懐かしさだけが空回りする。
 横で腕組みし、目を閉じている彼ならきっとこう言うはずだ。
『人はいつも、自分の本心にだけは素直だよ』
 ……憂鬱だ。
「懐かしいけど、くだらない歌だね」
 唐突に呟いた彼がチューナを切り替える。
 小気味よいラジオノイズ。局が変わり、ラジオからは最新ニュースが流れ出した。
 わたしの頭の中ではさっきの歌が続いていたけど、やがて途切れてしまう。
 歌詞もメロディもあれほど暗記していたのに、もう、思い出したくない。


To be continued...



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 皆様、初めまして。L.H.(える・えいち)と申します。

 ブログ『神鳥神楽(かみどり・かぐら)』で恋愛小説をブログ連載していきます。

 よろしくお願いします!ヽ(´▽`)ノ