国鉄相模線西寒川支線から相模海軍工廠跡へ | Bunny The Flat 【including 徒然鉄】

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相模線寒川駅にきましたよ! 
きょうは1984年に廃線になった相模線西寒川支線の廃線跡を歩きますよ!

 
さっそく205系500番代がやってきました!
僕の知ってる相模線は非電化ローカル線なので浦島太郎状態だ!
 
グレの前を列車が通過していきます。
あれ?でもこのシーン見覚えあるぞ!
 
1978-81年頃にかけて、当時中高生だったグレパパは、しばしば気動車の撮影に来たもんでした!
これはカーブの感じ、高圧鉄塔の位置から、ほぼ同じ場所の撮影だと思います!
それにしてもベッドタウン化で周辺の環境は随分変わりましたね!

 
へーえ!
 
じゃあこれからあるくハイセンあとも、パパはむかしいったことあるんですね?
 
実はないんだ。寒川駅からこのあと出す写真撮りにこのへん歩いたことは確かにあったんだけどね。

 
西寒川支線は地図のように寒川を出て200mほどで分岐して相模川にそって南進する盲腸線だったが、
 

 西寒川支線の列車は僕が撮影に行った当時は朝夕のみの極めて少ない本数だった。

それゆえ乗車も撮影もしたことはなかった。

唯一これが茅ヶ崎でたまたま撮影したキハ36の西寒川↔茅ヶ崎の貴重なサボ画像だ。

 

当時の車輌について触れておこう。

70年台末期から80年初頭にかけて記録した当時の主力車輌は3扉ロングシートのキハ30系(30,35,36)だった。

この30-62は現在でもいすみ鉄道国吉駅に動態保存されている。

 

その他、両運転台車輌が不足していたため2扉クロスシートの20系気動車のキハ20-281が在籍していた。

無味乾燥とした30系だけでなく、地方に行かないと見れないこんな車輌がいたのが当時の相模線の魅力だった。

 

同じ理由で当時でもかなり希少だった古豪10系の、キハ10-49,61が生き残っていた。

昭和末期国鉄では塗料の経費節減のためそれまでの国鉄標準気動車色・赤クリーム2トーンから朱色5号の単色・通称首都圏色への塗替えが進められた。

その第1号がこの相模線キハ10-61だったとされ、首都圏色という通称の由縁とされる。これは保存してほしかった車輌だ。

ちなみに室内はこんな感じ。
ナローボディのため通路側の肘掛けは無くて、照明は丸型の白熱灯。窓はいわゆるバス窓だ。
車体中央部左右には煙突の突起が柱のように立っていた。窓を開けると煤が凄かったな。 
 
…てなことを回想してたら軌道敷が広くなり、

 
ここが分岐した支線の線路の跡でしょう
 
振り返って道路を渡ると変則交差点の一角が微妙な広さの広場になっています。写真右上に本線の踏切が写ってますが、
 
そこで昔撮影したのがこの写真です!
現在は道が拡幅され、車も人も通りが多くて撮影どころではない感じでした!寒川神社の鳥居も後方に移設されたように見えました!
 
さて一之宮公園への標識にしたがってもう一本道を渡ると、
 

西寒川支線の軌道敷跡が遊歩道になって復活していました!

 

相模線西寒川支線の廃線跡歩き、スタートです!

 

相模線の歴史は1921年相模鉄道による私鉄線として開業、西寒川の支線は1923年に相模川の砂利採取運搬目的に開業した。

 

当初は西寒川駅は東河原という駅名の中間駅で、終点はその先の四之宮という駅だった。

 
1944年に運輸通信省による国有化により相模線となると同時に四之宮駅が廃止され、西寒川駅が終着駅となった。
 
戦後に旅客営業が一時期廃止されたが、その後再開し、1970年に貨物営業が廃止となり、1984年に旅客営業が廃止となり、この1.5kmの支線は廃線となった。
 

当時の軌道敷と線路が残っている!

 
1979年に厚木あたりで撮影した相模線のキハ35。
懐かしいシーンがよみがえる!以下、当時の写真を織り交ぜながら進んでいこう!
 
線路の横は一之宮公園になっていて、駅名板を模した看板があった。
 
社家駅でのキハ交換風景
 
最近はローカル線でも木の枕木はなかなか見かけなくなったが、ここは往時の牧歌的な風景のままである。
 

このあたりを動画で


それにしても青空の下で線路沿いを歩くのなんて久しぶりだ!

 
入谷駅にて、2トーンのキハ30の貴重な記録。
 
今では想像もつかないだろうが、
 

昭和のおおらかな時代は、

 
ちょっとくらい線路を歩いたってなんにもいわれなかったんだよね、
 

えっそうなんですか?

 
では!わたしもセンロをあるいてみます!
 
でんしゃがこないとわかっていてもなんかドキドキしますね!
 
似た雰囲気のところを行くキハ10

 
ああたのしいです!

 
こういうの、あれでしょ?スタンドバイなんとかっていうんでしょ?ホントのせんろでやっておこられたショウワのアイドルのひとがいましたね!?さいきん。
 
上溝付近にて、先頭はキハ20

 

 ふぅ〜、たのしみました!

 
ここでセンロがおわりました!
 
腕木信号機とキハ30

 

昭和のキハも今は動輪の形見だけになってしまいました…

 
さあラストスパートかな!
 

八角広場といわれる公園につきました!

ここが西寒川駅があった場所です!


ごくごく。のどがかわきました!

 
このへんがエキだったんですね?

 
写真は入谷駅のものだが、西寒川駅もこれとそっくりの1面1線の簡素な棒線駅の無人駅だったようだ。

 
ちょっとだけセンロがあって、そこにもなんかありますよ!
 
セキヒがありますね?
くんくん!なんとセンセキのにおいがしますよ!
 
ここ西寒川には、相模海軍工廠が置かれていたのだ。


海軍工廠とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発製造する大日本帝国海軍直営の軍需工場のことだ。

 
昭和19年、終戦間際に国鉄に併合された西寒川駅は工廠への人員の輸送を担う重要な駅となっていたのだろう。

 
なんかおもしろいことになってきました!

 
なんかウラにもモジがきざまれてるようです! 

 
ウラには碑文が書いてあるね。読んでみよう。
ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。
そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000㎡)の跡地である。
往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。
第二次大戦後、工場立地に恵まれ、跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。
いま台地に深く根差した縁に世界の平和を願い国土の安穏を祈る。 
建立 相廠会及び協力企業 昭和63年春
 
ちょっとナニいってるかわかんないです!
 
まー大人ってのはそういうボカした言い方するもんなのよ!
ここに大規模な海軍工廠が展開していて、西寒川支線は相模海軍工廠の工員や物資を輸送する軍用線としての重要な使命があったということは間違いないだろう!
碑文ではなぜかあえて触れていない、この工廠がどんな所だったのかは、これからある程度わかるだろう!

 

では相模海軍工廠跡地に潜入しよう! 

 
相模海軍工廠について調べると、すぐに自治体公表のこの地図を得ることができた。
工廠の跡地はA事案区域という名のもとに、周囲と区別されているようだ。
 
道路を渡り、現在は工場団地と化している、旧工廠跡のエリアに入る。
 
これが1946年に米軍機が撮影した相模海軍工廠の航空写真だ
そしてこれが現在のgoogleの航空写真だ。
まずは圏央道の高架に沿って進んでいこう。

ほどなくして、圏央道高架下の金網のウラ側、一般人からは見えにくい場所に、こんなものが貼ってあった!A事案区域だ!
 
A事案区域とは環境省によると、
と規定されている。
 
ここはまさに上述の1に該当する!
ここ相模海軍工廠では化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われたとされる。
 
元は平塚にあった海軍技研から、主に毒ガスの生産規模拡大のため、昭和18年に当地に移転開廠されたとされる。
海軍は毒ガスのことを特薬と名付け(陸軍は色で呼ぶ)、1号特薬(催涙)(緑)
2号特薬(クシャミ)(赤)
3号特薬甲.(びらん)イペリット(黄1号)乙(びらん)、ルイサイト(黄2号)
4号特薬(致死)青酸(茶)があり、
他にホスゲン(青)、窒素イペリットガス等があり、細菌兵器として11号特薬もあったとされる。
 その他砲弾、爆弾、手投弾、噴射、雨下散布等が作られ、他に風船爆弾発火剤用エチル亜鉛(ガラス瓶)数万個、サイダー瓶に詰められた青酸1万本、そして細菌兵器の数々が開発されたとされる。
終戦後、戦犯逃れの為、そのほとんどが遺棄、隠匿されたとされ、
平成14年に圏央道工事中に当地でビール瓶に入った3号特薬、すなわちマスタードガスに暴露された作業員11名が被災するという事件が起きた。
それを機にA事案区域が規定され、掘削などの土地の改変が厳しく制限されるようになった。
 
そんなことを調べながら歩いていたら、昭和が色濃く残るエリアに遭遇した!
 
今や見かけなくなったトタンの壁や屋根の倉庫
 
木造の小屋たち
 
そしてこれらに続くのが
 
くんくん!これはオオモノのにおいがします!
 
大型の倉庫跡
 
現在はもちろん所有企業の事業に使われているわけだが
 
これが工廠時代の荷役倉庫ということらしい
 
隣にもう一棟同規格のものがある
 
奥に連なる倉庫群も、
 
往時ものの可能性はある
 

今はただ静かに佇み、

 
粛々と現在のdutyをこなしているようだ。
 
動画です


最後にこの緑の荷役倉庫から、
 
先に見えた倉庫に戻って歩いてみよう


昔のことを決して語らぬ生き証人、相模海軍工廠荷役倉庫に今日の出会いの感謝を伝え、
 
 西寒川駅跡に戻りました。
 
まとめの動画です!


国鉄・首都圏近郊区間内での唯一の廃線は、あまり大きく語られることのない歴史を背負った1.5kmのトワイライトゾーン、
 
相模線・西寒川支線でした。

 

参考・情報教授