松井珠理奈さんが

 

雛まつり

5度の夢見し

生誕祭

 

という俳句を詠み、10点才能なしという無様な姿を「プレバト」というTV番組でさらした。

このことは3月7日に記事にしている。(一番下のリブログを参照)

 

色々問題点はあるようだが一番問題になったのは「生誕祭」である。

 

夏井いつき先生曰く「生誕祭」はクリスマスの事であり、冬の季語なのだそうだ。

俳句ということで考えれば冬の季語である以上、松井珠理奈さんが意図した意味で使うのは厳しいと思われる。

 

ただし私は国語に詳しくないので分からないが電子辞書で「せいたんさい」と入力すると「誕祭」としか出てこない。

松井珠理奈さんは「誕祭」と使っているので「聖誕祭」とは違う新しい語とは考える余地があるように感じるのだが、私の国語力では良くわからない。

 

電子辞書では

 

①聖誕=天子や成人の誕生日

②生誕=人が生まれること・誕生

 

と別々の意味が出ている。

 

松井珠理奈さんが使ったのは「②に祭をつけた新しい言葉」とも考えられる気がする。(生誕祭=アイドルの誕生日を盛大に祝うイベント)

 

 

となると「生誕祭はクリスマスのことだ」という訂正の仕方よりも「(聖誕祭とは違う)生誕祭、そんな言葉は通じない(≒マニアックすぎる)」という方が正しいような気がするのだが。

この辺のところは国語の専門家ではないので判断しかねる。

 

しかも本題はここから。

 

「せいたんさい」(誕祭と誕祭の問題がなんとも言えないので以後ひらがな表記とする)の意味は辞書で調べれば確かに「クリスマス」の意味しか出てこない。

 

 

夏井いつき先生は松井珠理奈さんの「せいたんさい」の使い方について「あなたたちの特殊な世界の言葉だろうとは思うけど」とおっしゃっている。(気を使ってか「だろう」という推定の上に「思う」という主観で述べていて、よく聞くと断定ではない)

 

しかし2018年現在「せいたんさい」を①「クリスマス」の意味で使う頻度と「②アイドルの誕生イベント」のどちらで使う場合が多いのだろうか。

 

実は松井珠理奈さんが使っているように②の意味の方が多いのではないだろうか?

私は女性アイドルのことなんぞほとんどわからない人間だが②の意味を知っている。

ネットでは明らかに「せいたんさい=②」であろう。

しかもアイドルオタクではない私がそれなりに目にするまでの頻度で使われている。

キリスト教徒以外で①の意味で使う人がどれほどいるだろうか?

 

辞書に出ている用例は日本語としてOKだが、ネット用語は日本語としてダメだと言えるのだろうか?

言語の難しさがここに出ている。

 

たまたま手元にある本を取り出してみる。

 

「柳宗悦 茶道論集」という本がある。

wikipediaに柳宗悦(やなぎ むねよし、1889年(明治22年)3月21日 - 1961年(昭和36年)5月3日)とある。

明治生まれの人が書いた文章だということだ。

 

 

 

「柳宗悦 茶道論集」p174に次の一文がある。(下線は引用者=私による)

 

そういう境地で、形を取り、姿を示す時、色であれ形であれ紋様であれ、悉皆(しっかい)成仏して美しくなるのである。

 

下線部の悉皆(しっかい)という語、今解る日本人はどれほどいるのだろうか?

岩波文庫でもフリガナはふってあるが、私は見たことも聞いたこともない日本語である。

読まれることを前提に書かれているわけだから、明治生まれの人たちにとっては当時一定レベル以上の汎用性を持った語なのだろう。

電子辞書にはちゃんと意味は出ている。

 

悉皆(しっかい)・・・残らず、すべて、すっかり

 

さすがに明治生まれでは古すぎるのならば「丸山眞男 音楽の対話」という本を取り出してみる。

 

 

 

wikipediaによれば丸山 眞男(まるやま まさお、1914年(大正3年)3月22日 - 1996年(平成8年)8月15日)とある。

大正生まれであり、1979年生まれの私とも生きた時代が10年以上重なっている。

 

対談における丸山眞男の発言がp101にある。(下線部は引用者=私による)

 

君の発言は穏当(おんとう)に欠くね。

 

「穏当」もちゃんと電子辞書に出ているし、「穏当に欠く」も用例として出ている。

 

穏当・・・判断・処置などが穏やかで無理のないこと 「―な解決策」「―を欠く表現」

 

1997年に御茶ノ水の駿台に通い、霜栄(しもさかえ)先生に現代文を教わった39歳のおじさんは「穏当に欠く」は知っているが、この表現は通常使わないし、受験以外でお見かけしたことが(ほぼ)ない。

 

 

 

 

 

部下に対して「あなたの発言は穏当に欠く」と言ったこともないし、上司から「お前の発言は穏当に欠くぞ!」などと言われたこともない。

 

このように2018年現在に辞書に出ている言葉がOKで出ていない言葉がNGだと言いきれないと思う。

 

では松井珠理奈さんが俳句で使った「せいたんさい」使用方法を全面的に肯定できるかと言えばそうとも言えない気がする。

ここに言語の難しさがある。

 

夏井いつき先生の言うように「アイドルの誕生日を祝う」意味での「せいたんさい」を俳句で使うことは不適切なのだろうか?

言葉は消えていく事がある。

どのような語句・表現も最終的には長い間(どのくらいをもって「長い」と判断するかも難しいのだが)が経てば消えていく、もしくは長い間経てば意味が大きく変質していくものではあると言えるのかもしれない。

しかし<<あっという間に>>消えていくものもある。

 

アベック・ナウい・ファジー(機能)・・・・これらの言葉は「あっという間に」消えた。(若い人には分からないか?)

 

「全部外来語ではないか?」という批判があるかもしれないので他の例を出せば「まったりと」。

 

「家でまったりと過ごす」なんて表現は一時期ものすごく定着しそうな気もしたが、2018年現在あまり使っているのをお見かけしない。

よほど「せいたんさい=アイドルの誕生日イベント」の方がお見かけする。

 

しかし「せいたんさい=アイドルの誕生日イベント」の使い方も定着するかどうか分からない。

2018年現在ある程度使われている用語だとしても、後に読まれる可能性があるモノ(ネットも含めて)に使って良い表現なのかどうか、本当はかなり難しいのだと思う。

 

今回は「言語の難しさ」の一例を取り上げた。

しかも国語の専門家でも何でも無い一介の出先機関勤務末端国家公務員が書いた。

 

国語の専門家ではない出先機関勤務末端国家公務員でも「言語の難しさ」に出くわす場合がある。

この事を伝えたくて専門家でも何でも無い私が言語のことを書いたのだ。

 

出先機関勤務末端国家公務員が出くわす「言語の難しさ」について4月から出先機関勤務となる新人国家公務員のために記事にしたいと思っている。

一応国家公務員のブログなので。

つまり今回はこれだけ長くてもイントロダクションなのである。

3月中に本論に入りたいと思うが、潰瘍性大腸炎という難病が私を攻撃していて、最近体調がすぐれない。

3月中に本論を書けるかどうかは不明である。