日本人の大多数は高学歴の人が嫌いである。


はっきりとこう書いておく。

羨ましさの裏返し(=嫉妬=しっと)なのだろうが、高学歴者は嫌いだ。
だから小保方「博士」が転落していくのを「楽しんでいる」。
理研という公共機関の問題だとか、日本の科学政策の問題だなんてほとんどの日本人は思っちゃいない。
博士かどうか以前に小保方春子氏は早稲田大学理工学部卒なのだそうだ。
早稲田大学理工学部という大多数の日本人(=私も含む)が入試で落とされる大学を卒業している。(wikipediaによるとAO入試の1種である創成入試で入学したそうだ)
その時点で大多数の日本人は気に食わないのだ。
そういう人物がちやほやされた。
で、今度は転落している。
愉快で仕方がない。
これが実態だろう。

私がこの仕事に就いて2年目の時に、新人として同じ係に入ってきた方が今同じ支部の庶務にいる。
簡単にいえば1年後輩だ。
同じ旧国家2種試験(当然キャリアではない)で採用された。

その人に先日言われたこと。
◯◯さんは歩く六法全書
約10年前に私が言った(のであろう)学歴(=法学部卒)を覚えていた。
そこまで他人の学歴に興味があるのかと思う。
いやどうやらあるらしい。
私がなさすぎるらしい。

会話をしていて「☓☓さんは△△大学卒業で」と言われたので「へーそうなんですか」とこちらが答えると「前にも言いましたけど」と言われる。
私はこんな感じだ。
1回聞いた事を覚えていないほど頭が悪いと言われればそのとおりなのかもしれないが、そもそも他人様の学歴なんぞ興味が無いので聞き流しただけだ。
妻の話を聞き流している夫と同じだ。
「あなた、聞いているの!?」なんぞ怒っていても聞いていないのだ。
いや正確には「そんなクソ面白くない話は聞くつもりがハナからない」のだ。

どう考えても「歩く六法全書」は褒(ほ)め言葉ではないだろう。
書籍扱いだ。
褒めていると言う「言い訳」ができるだろうが、内心は褒めてないだろう。

最近は減ったが学歴を聞かれる事がそれなりにあった。
私は正直に答えていたが、めんどくさいことになったり勝手に広められるリスクがあるので明確に回答するのはやめた。
東京にある私立大学でありながら東京六大学に入っていないレベルの大学です」と<満面の笑顔で>答えることに変えた。
そうすると相手はなにか聞いてはいけないことを聞いてしまったような感じになりもうそれ以上聞いてこない。
ちなみに東京六大学とは慶応・東大・法政・明治・早稲田のことである「そうだ」。(私は東京六大学に属する大学卒ではないのでよく知らない)

「東京にある私立大学でありながら東京六大学に入ってない私立大学」卒でありながら法学部卒だというだけで「歩く六法全書」扱いである。
万が一私が国立大学や小保方氏同様早稲田大学でも卒業しようものならもっとめんどくさいことになったであろう。

私ははっきりと職場で公言している(本当はこういうことは公言してはいけないことになっているらしいのだが頭が悪い私にはよくわからないのではっきり公言する)のだが「本当に頭がいい人はこんな所(国の出先機関=末端機関)には来ない」のだ。

大卒だろうが専門学校卒だろうが高卒だろうが五十歩百歩(=あまり変わりのない)の人しか集まっていない世界で学歴があーだ、こーだ言っても仕方がないがどうも気になる人がいるらしい。

また「◯◯さんは英語ができるのですか?」という変形バージョン型質問がある。
勿論、答えは「できません」である。
本当に英語が出来る人は英語を活かせる仕事に就いているのでこんなところにはいない」が正解だろう。(ただし今まで1人だけ英語ペラペラの職員を見たことがある。なぜこんな出先機関=末端にいるのか不思議である)

別に小保方氏だけではない、日本人の大多数は学力のある人達全員を本当には尊敬していない。
尊敬していれば勉強ばかりしている人を「根暗(ネクラ)」「ガリ勉」何ぞ言ってバカにはしないだろう。
勉強している方が勉強してない人よりもバカであるはずがないのだが、勉強をしてない方が勉強している方をバカにするというヘンテコな事が通ってしまう
勉強してない奴よりも勉強しているヤツのほうが偉いに決まっている。
日本では高校でスポーツに打ち込むのはかっこいいが勉強に打ち込むのはキモいらしい。
単なる自分が怠けていてダメなのに嫉妬(しっと)している方が私にとってはガチキモいが、世間の大多数の内側にある本心はなぜか勉強をして(勉強しなくても)高学歴を得た方がダメで尊敬されない。

「インテリなんぞ言うことは庶民感覚から離れていてクソだから聞きたくない」というのが本音だ

東京大学卒にて大蔵省入省後ミシガン大学で博士号を取った榊原英資(さかきばらえいすけ)氏が「幼児化する日本社会」にて「海外ではありえない素人コメンテーター」ということを書いている。



大蔵省時代は「ミスターyen(円)」とまで呼ばれた榊原氏


昨今、日本のテレビに出てくるコメンテーターはお笑いタレント等であることが非常に多く、彼らがウケを狙ったお笑いを交えて話すというパターンができています。
そのできごとについて詳しい知識を持っていたり、深い洞察ができる話を伝えるのではなく、テレビで顔を知られている人にコメントをさせるというものです。
タレントがコメントしてはいけないというのではありませんが、それが主流になっているのは、どこかおかしいと言わざるを得ません。

(中略)

しかし、ものごとを分析するのなら、専門家にさせるべきです。
その上で専門家でない人がその内容を視聴者にわかりやすく話すというのならわかります。(p144)




まさしくその通り。
しかし(震災直後の放射能問題のようなガチやばい状態を除く)平時において専門家(たいていがインテリ、高学歴)なんぞの話は聞きたくはない。
嫌いなんだから。

勘違いしてほしくないので書いておくが、私は芸人をバカにしている訳ではない。
断じてない。
むしろ高く評価しまくっている。
私が一番好きなテレビ番組はバラエティ番組の「ロンドンハーツ」。
この番組は本当にクオリティが高いと思う。
それこそ大学時代から観ている。




「ロンドンハーツ」は子供に見せたくない番組No1らしい。
本当に子供に悪影響をおよぼすと心から信じているのならば家からテレビを撤去すればいい。
本当に子供のためになるのならそれくらいのことはできると思うのだが。




だが、芸人さんが公共の電波を使って流されている報道(報道的な要素のある)番組で専門家(大抵の場合はインテリ、高学歴)を差し置いてコメントをしまくることには断固反対する。
こんなものは聞いても意味が無い。
「庶民的」だというのなら私の方が所得・資産から言って断然庶民的だ。
だから私のほうが庶民感覚を持っているはずだから、私のほうがテレビのコメンテーターとして適切な意見が言えるということになってしまう。
変だろう。
よって私はテレビ報道(報道的な要素を持つ番組)は見ないことにしている。
見ない理由はいろいろあるが池上解説とNHKの番組以外は一切見ない。
専門家でもない人のコメントを聞いても時間の無駄である。

大多数の日本人が(内心の奥底の本心では)高学歴者を嫌いな理由は簡単にいえば「嫉妬」だろう。
こういう人間の嫌な面もきっちり見ておかないといろいろな誤りを引き起こす。
だから私はもう職場では学歴をはっきり答えないことにした。
大きな問題が起きる訳ではないが、めんどくさい事にはなる。

副島隆彦氏が「隠されたヨーロッパの血の歴史」という本を書いている。
イタリアルネサンスの話なのだが、その中でサヴォナローナという人のことを触れている。


隠されたヨーロッパの血の歴史

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最後にサヴォナローナについて捕捉する。
サヴォナローナは自分の持てる演説の力で人々を魅了する力だけで、腐敗と堕落のない清廉なる政治体制を作ろうとした。(p252)


wikipediaによるサヴォナローナの項目から抜粋する。


1494年、フランス軍が侵攻してくると、それを予言していたということで信望が高まる。
メディチ家はフランスへの対応を誤ったことからフィレンツェを追放され、サヴォナローラが共和国の政治顧問となって政治への影響力を強める。
これ以降、神権政治が行われることになった。
次第に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)から破門される。
贅沢品として工芸品や美術品をシニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われ、市民生活は殺伐としたものになった。
画家サンドロ・ボッティチェッリも彼の影響を受けて華美な絵を書くのを止めてしまったほどである。
だがサヴォナローラの厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高まっていった。
1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けた。
これは4月7日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが、4月8日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。
彼は激しい拷問を受けた。
教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。


副島氏はこのサヴォナローナの「無残な」末路について次のように書いている。

サヴォナローナがいけなかったのは、人間という生き物が持つ穢(きたな)らしい側面をすべて無視したからだ。(p254)




賛否両論の多い副島隆彦氏


私自身、性悪説(せいあくせつ=人間は本来悪いものだ、気をつけろ)に完全に立つほど吹っ切れていない。
かと言って完全に性善説(せいぜんせつ=人間は本来素晴らしいのだ、何も気をつける必要はない)とも思えない。
中途半端と言えば中途半端だが、今回書いたような「不条理な」嫉妬のようなものは意識しておく必要があるとは思う。
こういう人間の負の面を含めて「にんげんだもの」と捉えておく。
そうしないとサヴォナローナほどの悲劇は招かなくてもめんどくさいことになはなる。

多くの人が反感を持つであろうことを今回わざわざ書きつならねまくったのは以後書こうと思っている別の記事に関係するから。
本当にその記事を書くかどうかは分からないが、書いた場合にリンクを貼るため。
今回の件を書いていると本題から外れまくるから。
ということで不快に思った方もご容赦ください。