1.【旦那も後継ぎも一晩で逝く】


 えらい目に遭ってきました。一夜で旦那も後継ぎもなくしました。その夜は昭和20年3月24日の深夜でした。

 それより5日前の夜の空襲(*1名古屋大空襲)で、高松町のアサヒビール社宅のそばの家が全焼していました。高辻の名古屋工業学校(名古屋工業高等学校)を卒業して「ワシノ」の工場に勤め、桑名にいた後継ぎの斉が、19日の空襲で家が燃えたからと、帰ってきました。早速、斉と旦那は平戸橋に疎開させておいた布団などを貨物自動車で取りに行きました。昼過ぎに平戸橋から帰って「平戸橋は景色の良い所だから疎開しなさい」と斉は私に言い、自分は床屋に行って頭を綺麗にしてきました。その夜が3がつ24にちでした。またもや空襲になりました。

 高松町の家が焼けてからは、旦那の妹のところ(今池町)で世話になっていました。斉は「お父さんと逃げる」と言って、平戸橋から持って来た布団などをリヤカーに積んで出ました。妹さんと養女の恵美ちゃんは近くの防空壕に逃げましたが、よそ者の私の入る余裕などありません。仕方なく1人で18間道路を桜山の方へ逃げました。高松町の時には落とされなかった照明弾が落とされました。照明弾で真っ昼間のように明るくなると爆弾が落ちて来ます。物凄い破裂音がします。必死に走りました。桜山あたりをうろうろしていますと「こんなところに居たら死んじゃうぞ。山の方へ行くで、ついていりゃあ」と声を掛けてくださった男の人について行きました。10分歩いたか、20分歩いたか、木立の中にぽつんぽつんと別荘風の住宅がありました。その中の1軒の庭先に入れてもらい、3月の夜寒に震えながら、赤々と燃える町の灯を眺めて空襲が終わるのを待ちました。

 空襲警報が解除になっても辺りは真っ暗でした。東の空が白みかけ、足元が見えるようになって、18間道路に出て今池の方へ歩きました。焼けた建物がくすぶり、行き交う人の衣服は汚れ、みんな異様な顔付きをしています。30分ほども歩いて、18間道路から妹の家に通じる細い道に折れて、10メートルも入ったでしょうか、道路に旦那がうつ伏せになっていました。駆け寄ってみると、左胸の路上に血だまりができていました。そこから10歩も行かないところで斉が頭から血を出して死んでいました。立つこともできず、声さえも出せませんでした。二人の間で唖然としていましたら、「澤田さん、澤田さん、何やっとるだん」と知った人が声をかけてくださいました。「何やっとるも、かにやっとるでもにゃあけれど、ふたりともあかんようなふうだ」とでも言ったのでしょうか。そしたら、その人が旦那の妹の旦那さんを連れて来てくださいました。

 「御船や平戸橋へは僕がほお言ってこうか、姉さん」。

 「わしじゃあどうしようもねえで、警防団の人に頼んでやってもらっとっておくれんかねえ」。

 そう義弟に頼んで、私は歩いて八事にたどり着き、平戸橋行きの尾三バスに押し込んでもらいました。平戸橋の叔父(母の弟)の家に入ると、一睡もせずに逃げ回った疲れと、旦那と斉を一緒に失った悲しみがどっと出ました。

 翌朝、一番のバスで兄や伯父と今池へ急ぎました。旦那と斉の遺体は千種学校の校庭に並べられていました。逃げずに妹さんの家におられた姑が二人の亡きがらを前にして、「二人を夜中さすっとった」と言われました。私のしなければならなかったことを姑がしてくださったのです。逃げたのではなく、連絡に行ったのですが後ろめたさを感じましたねえ。私はその時、45歳でした。


*1名古屋大空襲・・・ウィキペディア

昭和20年3月19日の午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われた。この空襲により一夜にして151,332人が被災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が焼失した。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。