中学1年生の最初の文芸作品で、非常におもしろい教材です。

 聞いたこともない題名の〈さんちき〉という言葉の意味が、「ああ、なるほど、それで題名がこうなっていたのか!」と解き明かされたとき等、読んでいて思わず手を打ってしまうことでしょう。それ以外にも数多くの《仕掛》や〈三吉〉と〈親方〉の掛け合いなど、読者をラストまでぐいぐい引っ張っていく語り口は、さすが吉橋道夫だと言わざるを得ません。

 

 けれども、この作品には、ある言葉が非常に数多く反復されていることに、ほとんどの生徒は気づいていません。また、この〈親方〉をどう思うかと聞くと、「三吉のことを思い遣っていて優しいけれど、どこか身勝手でおこりっぽい人物」または「言っていることがコロコロ変わる」「ちょっとケチな人物」という感想を持つ生徒が少なからず出て来ます。

 

この作品の《視点人物》は〈三吉〉ですので、授業は〈三吉〉の人物象を考えて行くことが大切になりますが、ここでは、この謎と親方の人物象を中心に見ていきたいと思います。

 

まず、反復に関して。

この作品で数多く反復されている事柄があります。それは、〈ろうそく〉の存在です。またそれを〈ともす〉〈消す〉という行為です。

 

〈三吉は仕事場に降りてろうそくをともした〉

ろうそくの明かりを頼りに〉

〈明かりをつけておくと物騒だ〉

〈「ろうそくが、もったいないやないか!」〉

〈慌ててろうそくの明かりを吹き消した〉

〈「よし、ろうそくをつけてみい。」〉

〈もう一度ろうそくをともした〉

〈ゆらゆらと燃える炎〉

〈親方がろうそくを指差すと同時に、三吉が吹き消した〉

〈親方は、自分でろうそくをつけた〉

〈はっはっは、さあ、もう寝ろ。ろうそくがもったいないやないか。」〉

〈三吉は、ろうそくを吹き消そうとして〉

〈思い切り息を吸い込んで、ろうそくの明かりをひと吹きで消した。〉

 

 いかがでしょう。教科書数ページの作品中にこれだけ〈ろうそく〉に関する表記が反復されています。実はこのことが、〈親方〉の人物象を見ていく上で重要な問題になっているのです。先ほどの「言っていることがコロコロ変わる。」という感想も、親方がろうそくをつけろと言ったり、消せと言ったりするところから、出て来ているようです。

 

 この問題をもう少し掘り下げてみましょう。

 冒頭で〈三吉〉は、〈親方〉が寝静まった後、〈ろうそく〉をつけたのですから、本来この行為はよくないことだという認識は持っています。〈親方〉に見つからないように自分の名前を彫るためですので、当然こっそりと行ったことでしょう。ところが〈親方〉が起きてきて見つかってしまいます。この時、〈三吉〉はとっさに火を吹き消すのですが、その理由は、〈親方〉が〈「ろうそくが、もったいないやないか。」〉と言うに決まっていて、それで叱られると考えたからでしょう。このことから「親方はケチ」だと考える生徒も出てくるようです。けれど、これは〈三吉〉が《視点人物》なので、〈三吉〉が勝手に親方のことを想像して考えている内容に過ぎません。事実〈親方〉は〈「物騒やないか」〉と言っています。

 

 ここで、《条件的な見方・考え方》という《認識方法》を使います。《条件的な見方・考え方》とは、「他ならぬ〇〇だからこそ」という見方・考え方です。例えば、「他ならぬ中間試験中だからこそ」と考えれば、今何をすべきなのか、逆に何をすべきでないのかがよくわかります。

 

 この作品の時代背景は幕末の京都です。当然、あちこちで政治的な対立によって、侍同士の殺し合いが起きています。このことは、文中でも説明されています。

 「他ならぬ幕末の京都の町だからこそ」と考えてみればどうでしょう。親方のセリフは、こんな情勢の中、夜中にろうそくがついていれば、何かよからぬ談合でもしているのではないかと疑われかねない。一刻も早く火を消す必要があるという意味になり、車伝の主としても、もっともなことだと言えます。

 

 一方、自分の名前を彫るために、夜中にろうそくを灯し、見つかると〈親方〉から「もったいない」と叱られると考えている〈三吉〉の人物象はどうなるでしょう。世情を理解していない、幼いところのある人物だということが見えてくるでしょう。〈三吉〉は八歳で弟子入りしてまだ五年とありますので、十三才の中学1年の読者と同じ年頃の少年なのです。

 

 ところが、その〈親方〉が〈三吉〉が「自分の名前を彫っていた」と答えたとたん、〈「よし、ろうそくをつけてみい。」〉と言い出します。〈三吉〉に寄りそっている《話者》は〈変な理屈だ。さっき、「物騒やないか!」と怒鳴ったのを、もう忘れている。〉と語りますので、読者である中学生達も、「親方はいい加減なところがあるなぁ。」と感じるとことです。さらに、「うちの親もよくこんなこと言う。」だとか「先生もこんなところあるよね。」とコソコソ話し出したりもする場面です。

 

 ここをどう考えればいいのでしょう。《視点人物》は〈三吉〉ですので、〈親方〉がどんな気持ちでそう言ったのかはわかりません。でも、《条件的な見方・考え方》を使って、読者として〈親方〉の言動を意味付けてみましょう。

 

 〈親方〉は最初から、こんな夜中にろうそくをつけているのは〈「物騒」〉だと言っています。危険なことだという認識を持った人物だと言えます。常識的に考えれば、「三吉の言い分は明日の朝確認するから、今夜はもう寝ろ。」と言ってもいいはずです。でも〈親方〉はそれを選ばないのです。では、なんのために。

 

 次に、《仮定》という認識の方法を使います。「もし〇〇だったとしたら」と考えるのです。物騒なことは重々承知の親方が、車に何かをしていた行為を、もし不問に付して寝てしまったとしたら。それはどうも、〈車伝〉という祇園祭の重要な要でもある鉾の車輪を作っている人物には似合いません。いいすぎかもしれませんが、仕事に対して、無責任な人物だと思えてしまいます。

 

 〈親方〉は、〈「命を懸けて車を作ってる」「鉾の上に乗る四十人のはやし方の重みを、この車が支えてる」〉と何度も口酸っぱく教えてきた人物です。だとすれば、ここで親方が〈ろうそくをつけてみい〉と言ったのは、〈三吉〉の言葉の真偽を問うと言うよりも、なによりも〈車〉の安全を「確認」するためだと考えるのが妥当ではないでしょうか。つまり、それほど仕事に対して責任を持って臨んでいる、責任感のある人物だと考えられるのです。

 

 次は、〈そのとき、外でドサッという音がした。物が倒れたような音だった。〉という場面です。《話者》は車伝の中で〈三吉〉に寄りそって語っていますので、外の様子は語れません。ですので、〈物が倒れたような〉という比喩を使って語っています。当然、〈親方〉にも〈三吉〉にも侍が倒れた音だとはわからないのです。けれども、ここで二人は阿吽の呼吸で、瞬時に〈ろうそく〉を〈吹き消し〉ます。いかに幼さのある〈三吉〉にも、当然〈親方〉にも、何か危険な状況であることはわかったことでしょう。

 

 外に出て、侍が斬り殺されたことを確認した二人ですが、足音が聞こえた瞬間、家の中に駆け戻ります。そして、〈やがて、三、四人の足音が表で止まった。鋭く低い声がしたかと思うと、すぐに、足音が、もと来た方へ引き返していき、次第に遠くなって消えた。親方は、もう一度戸を細く開けた。何もなかった。倒れていた侍も刀も消えていた。〉とあった後、親方は〈自分でろうそくをつけた〉のです。

 

 危険な状況であり、ましてや侍が斬り殺されたその後、なぜ、〈ろうそくをつけた〉のでしょう。大きな疑問が湧いてきます。その後の〈親方〉の語りは本当に感動的です。怖がっている〈三吉〉を慰めるためにという意見もちらほら聞こえてきそうですが、僕はそれだけではないと考えています。

 

 もう一度、〈ろうそくをつけ〉る前の文章を見てみましょう。〈三、四人の足音が表で止まった。〉とあります。殺された侍の仲間なのか、それとも敵なのか、ここではまだわかりません。

 

 次に、〈すぐに、足音が、もと来た方へ引き返していき、次第に遠くなって消えた。〉〈倒れていた侍も刀も消えていた。〉とあります。もし、敵方の侍達が集まってきていたのなら、〈侍〉の死体や〈刀〉を持ち帰っていくでしょうか。むしろ、この〈侍〉の仲間はいないかと、近くの民家を探し回るのではないでしょうか。おそらく、〈侍〉の仲間達が弔うために死体と刀を持って帰って行ったと考えられるのです。

 

 〈次第に遠くなって消えた。〉というのは一定の時間の経過も感じられます。ましてや、犯人がいつまでも現場にうろついているとは考えづらく、だとすれば、彼らが復讐のためにここに戻ってくる可能性は非常に低くなるでしょうし、むしろ他を探しに行くことでしょう。また、敵方の侍達も自分達が斬り殺した現場にうろうろする可能性もまずないと言えます。この〈親方〉は、そういう状況判断をきちんとできる人物なのだと思えます。だからこそ、〈自分でろうそくをつけた〉のです。

 

 最後に、ぶるぶる震えている〈三吉〉に、車大工の仕事が、人の命を守り、未来に続く誇りあるものだということを、侍という「命を奪い合う」存在と対比的に語ります。まさに、大工のノミは、刀と同じ刃物でありながら、一方は物を作り、生み出すものであり、一方は人の命を奪うためにあるものなのです。ここまで語った〈親方〉は、〈さあ、もう寝ろ。ろうそくがもったいないやないか。〉と言います。必要なことが全て終わった後は、これ以上ろうそくをつけているのは無駄でしかないのです。

 

 このように考えて来ると、〈親方〉の人物象が、生徒達の中で変化していきます。《初読》では、「優しくていい親方だと思うけど、どこかケチくさくてちょっと面白い人物。」「言うことがコロコロ変わったりして、うちの親や先生みたいな人。」と言っていたのが、《再読》では、「仕事熱心で、自分の仕事に責任を持っている信念のある人物。」「三吉のことを心から思い遣り、成長させようという気持ちが強い人物」「状況把握が瞬時にできて、条件的な見方ができる人物」など、かなり違った意味付けが生まれてきます。

 

 そして、最後にこう切り返します。「最初、この〈親方〉を先生みたいだとか、自分の親みたいだとちょっとバカにして言っていたが、でも、どうだろう。親や先生というのは、もしかしたらこの〈親方〉のように、ちゃんと条件的に考えて、責任を持って仕事をして、君たちのことをより良く育てたいという願いを持っている存在なのかもしれないよ。」

 

 まあ、こういうとほとんどの生徒は「そんなことはないよー。」と言いながらも、どこか嬉しそうな顔をしていました。

 

○《認識の方法》 比較(類比・対比)》条件》(他ならぬ○○だからこそ)、《仮定》(もし〇〇だとしたら)

☆《認識の内容》

 一見すると矛盾したことをしているように見える親方。しかしそれは、幼い三吉の目と心を通して《内の目》で見えてくる人物像であった。《外の目》で、幕末の京都という《条件》をふまえて考えたとき、実は親方の言動は全てつじつまが合っていて、三吉の成長や命を守り育もうとしている人物(まさに、親や先生のような存在)であることがみえてくる。

 そういう優れた人物を、ともすれば誤解して感じてしまうのは、見る側の人間が「条件的な見方・考え方」を持っていないことに起因しているのかもしれない。