ご無沙汰しております。先日、リーダーの山本くんに誰でも記事が書けるようパスワード等をお知らせしましたが、どなたも書き込まれないようなので再び失礼させていただきます。しばらく文学作品と疎遠であったため、また変テコな選択をしてしまいました。


先に申し上げますと、僕は『ドグラ・マグラ』を挫折しました。ですので、むしろ、読みきった方がいらっしゃればご教授いただきたい次第であります。


…丁寧語はなれないですね、普段の語調に直します。


角川文庫版では、とても不気味で奇抜な表紙になっており、要約部分に「これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる」とか書いてある。あー、ひょっとして、「胡蝶の夢」みたいな話かな、と最初は感じた。いま、私が見ている現実は、実は蝶が視ている夢にすぎないのではないか。こうした命題は真であろうと偽であろうと証明する手はないので、むうーって根を詰めてしまう人は考えるだけで精神を病みそうな話。


でも、本編は予想を超えて奇抜だった。


主人公はある部屋に寝ている。ブウ――…ンという音で目を覚ますと、そこは青暗いコンクリートの壁で覆われた二間四方の床だった。隣の壁から女の人の声がかすかに聞こえたので、呼びかけてみる。「アッ…その声はお兄さま。お兄さま、あたしです。お兄さまの未来の妻のあたし、…お兄さま、隣にいらっしゃるお兄さま、お兄さま?お兄さま、声を、もう一度声を聞かせてぇーっ!」


とてもシュールである。


で。ちょっとすると法医学の博士が部屋に入ってくる。いわく「君はある博士の精神科学の重要な被験者としてこの精神病棟にいるのであり、それは偉大な実験なのだ」と。その実験とは、人間の精神に暗示をかけて、まったく別人格を作り出すこと。精神遺伝の中にある暗示を入れておくと、その人間を発狂させることができる。


非常に胡散臭い。


まあ、仮に本当の話だとしたら、確かに大変な話だ。精神を発狂させて人を蛮行に走らせ、しかも事後、記憶を消去することも可能なのだとしたら、これほど害毒になるものはない。そしてどうやら主人公はもうすでに何らかの怪事件を起こしているようで、自分の名前も忘れている。そして、博士は主人公の名前を思い出させるため、彼と所縁のあった少女の元へと誘う。その少女は冒頭で「お兄さまっー!」と叫んでいた娘で、主人公とは一千年前の過去において義理の兄妹であったという。


繰り返す。非常に胡散臭い。


そうそう、『ドグラ・マグラ』とは何ぞや?という回答は上記のような何やかやがあった後、図書館で判明する。とある精神疾患の患者が書き溜めた奇妙な記録、それが「ドグラ・マグラ」。


言ってみれば作中作なのだが、この「ドグラ・マグラ」が開始されるあたりから、もう訳がわからない。

訳がわからないんだけれど、精神、ざっくばらんに言うと人間の心なんてゆうのは、そんなものだと思う。複雑で入り組んでいて、一貫性がなく出口もない。


「キューブ」という映画をご存知だろうか。立方体が無数に固まってできた巨大な<キューブ>で、立方体から別の立方体の部屋へ移動する際、一面以外には殺人の罠が仕掛けられている。つまり六面ある立方体のうち五面には罠があって、とある法則に則って部屋を移動していかなければすぐに死亡。そこに…六人だっけかな、ともかくそのくらいの人数で出口を探していくストーリー。本書を読んで、僕が連想したのはこの映画だった。関係があるかどうかは知らない。


本書では、「胎児の夢」というのもキーワードになっているので、きっと精神遺伝の方がメインなのだろう。夢が過去の経験をごちゃまぜにして整理する記憶の整頓機能なのだとしたら、母親の胎内から出ない胎児が夢を視るわけがない。もし、視るとしたら、それは前世の記憶だ。


チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマは転生思想に基づいてその地位につく。生前に使っていた先代のダライ・ラマの道具を、使ったことも見たこともない子どもが「これは僕のだ!」と主張し、後継者となるわけだ。後継者の選別は厳粛かつ厳格に行われる。これまた映画で恐縮だが、マーティン・スコセッシが「クンドゥン」でその雰囲気を映像化している。これ以外にも前世の記憶があると証言する人は世界各地で記録されている。


まー僕は輪廻転生とかオカルティックすぎて信じない性質だけれど、「ドグラ・マグラ」はそうした精神の謎の部分を正面からぐちゃぐちゃにして切り開こうとした小説で(たぶん)、そこから出てくる何かを信じるか信じないかは読者しだい、かな。


なによりかにより、昭和10年にこんな内容の本を書けたのはすげぇ。

この書評ブログで取り上げるにはいささか不適格かもしれませんが、その時は言ってください。桜庭さんはいわゆるライト・ノベル出身で、『私の男』で138回直木賞を獲った人です。この本を取り上げた理由を説明するには、僕の個人的な文学観から入るのが適当ですかね。


文学がテーマとして掲げるモノには、多かれ少なかれ、普遍性があります。生と死、真・善・美、神の存在、罪と罰、性、エトセトラ。「そこ」を描くにはきっととてつもない執念が必要で、だからこそ、名作は時代を超えて不動のモノとしてある地位を獲得するのでしょう。そして、その不動性があるからこそ、読み手ごとに多様な解釈が存在し、批判や非難、或いは賞賛を受けても残っていく。…というと良いことづくめっぽいですが、これが危ないのは、作品が「権威」を持ってしまうこと。


マクロな視点でいえば、権力者が自分の民族や国の優位性を担保するために、芸術作品を収集・利用することがあります。ミクロ、つまり個人間の問題でいうなら、「知らないこと」が恥であった時代(1970年以前くらい)は、マルクスやサルトルを読んでいないだけで、知識人(もしくは知識人ぶった人)たちの間で馬鹿にされたらしいです。今は、別に「知らないこと」が恥と捉えられない風潮がありますから、あんまり実感はできませんけれど、なんだかとても陰湿なことに文学や芸術や思想を利用してたようですね。W・村上の著作や、ユニクロの社長のエピソードや、小林よしのりの漫画を読むとみんな同じようにそんなことを言っています。


いわゆる、文学が持つ「ハードルの高さ」を使って、教養書を読まない人間を低位に押し付け、自己の優位性を担保する。文学はそこにあるだけなのに、歪んだ形で利用しようとする人がいるわけです。洗練され、時代を超えた文学は、実際に利用「されうる」。これが僕の抱く文学観のようなものです。


さて、ここら辺からようやく本題らしくなりますが、現今のサブカルチャーである漫画・アニメは、上記のようなモノへのカウンターとしての役割を担っています。入り口が広くて、出口が狭いってやつですね。ジブリなんかはそうです。金曜ロードショーで放送するほどポピュラーなのに、突き詰めていくと深い思想がある(らしい)。最近だと、「エヴァンゲリヲン」がそれに当たってる気配があります。文学などの芸術が有する普遍性を打破するために作ったはずなのに、多くの人の共感と時代感覚を得て、エヴァが「文学」と言われるまでになってしまった。監督さんはエヴァに思い入れがありすぎて、どうやっても作品を改変することができなかったそうですが、しかし「エヴァは変わらなければならない」という執念のもと、新たに新劇場版が公開されています。あくまで、その場で消費される物語本位を貫いているように感じました。「権威」として、エヴァが時を越えることは我慢できなかったのかもしれません。


はい。前置きが長くなりました。そこで、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』です。要するに、狭義の「文学」は脱時代性と普遍性を有しているから、権威として利用される「場合がある」けれど、広義の「文学」であるサブカルチャーは、権威および権力のカウンターとして、その場その時で消費されるモノじゃないですかね、という一つの考え方です。


本作は、あえて分類分けをしてしまうなら、肌に合う合わないは別にして、誰でも簡単に読めると思うので、やはりサブカルチャーのようなところに配置されるのかなと。簡単にあらすじを追います。早く自立して、実践的な力を得たいと考えている女の子、山田なぎさの学校に、異様な転校生がやってきます。海野藻屑(うみのもくず)。びっくりするくらいの美少女で、「ぼくはですね、人魚なんです」と自己紹介して、常に足を引きずって背後からペットボトルを投げつけてくる。先の前置きで、サブカルは権威へのカウンターだと書きましたが、この小説も二人の女の子の、社会や暴力への抵抗の話なんです。


なぎさは、引きこもりの兄と家計を養うために、余計な妄想や空想を排除して、卒業後、自衛隊に入りたいと思っている。彼女が使うのは、「実弾」です。金とか、実際的な技術。一方、藻屑が使うのは、甘ったるい「砂糖菓子の弾丸」。嘘と虚構ですね。しかし、物語を追っていくうちに分かるんですが、なぎさの兄は嘘のように現実離れした引きこもり(作中では「貴族」と表現されている)です。そして、藻屑は常に圧倒的な、これ以上ない現実である「暴力」にさらされて、痣や怪我が絶えません。嘘なしに現実なんて生きられないし、現実を知っていないと嘘なんか吐けないわけです。二人は互いに、自分の裏側を、目の前に見せ付けられている感覚だったのかもしれませんし、だからこそ惹かれたのですかね。


物語のはじめに結論が書かれている方式なので、二人の戦いの結末は、決まっている。解説の方に端的に書かれていた言い方を使うなら、「悲劇」。


ものっそい唐突ですが、アダムとイヴが知恵の実を食べて、楽園を追放されることも、決まっていましたよね。ガブリエルだかラファエルだかが、アダムに説教しに来たやつです。神さまは人間が誤った選択をすることを知っていたけれど、天使やイエスが「やめさせるべきだ」と反対するにも関わらず、アダムとイヴにその選択をさせた。楽園追放という「悲劇」を「選択」しなければ、人間が人間たりえない、と、人に愛着を持つ神さまは考えたらしいです。ジョン・ミルトンの『失楽園』によれば。


で、藻屑の悲劇をなぎさが直視するか迷ったとき、なぎさの兄である友彦が、それまでの人間離れした「神の視点」から戻ってくるんです。何があっても動じず、まるで推理小説の「名探偵」のような位置にいた友彦が、外に出て嘔吐しながら、人間に戻っていく。選んだわけですね、現実の運命を。そのときに、なぎさも本当の「実弾」を手にしたのだなと思いました。暴力とか、不条理とか、悲劇を打ち抜く、実弾。もしも虚飾に満ちた兄が「行くな」と言えば藻屑の元に、なぎさは行かなかったでしょう。しかし、藻屑のことが本当に大事であったから、なぎさの甘えにもなっていた「貴族」の兄も人間の世界に戻ってきた。嘔吐を、非常な痛みを、伴って。


長くなりました。それでは。

なんだか、止まらなくなってしまいました。


『城』は、測量士Kが、城に雇われてきたはずなのに、城にずーっとたどり着けない話。城に問い合わせても、たとえば


K…「城に雇われてきたのですが?」

役人…「何だって?」

K…「だから、測量士として呼ばれたKです」

役人…「知らんね」


といった感じのやり取りが続く。城への案内人は城に案内せず、城下に住む村人たちも規則に従うばかり。なぜKが城にたどり着けないのかは、役所との議論で判明する。すなわち、役所というところは縦割りで部署ごと異なる様式を持っており、ある訴えが複数の部署をまたぐ場合、間違いが起こりやすい。しかも、これを訂正する手続きは複雑で手間がかかる。だから役人も真剣には取り合わない。


Kは、相当なリスクを背負って城下の村までたどり着いているので、引くわけにはいかない。そこで何とかして城へ入る方法を見つけようとする。…のだが、いつの間にか宿屋の女中と婚約し、無職のままではいられないから学校で下働きをし、役人を襲おうと計画を立てたら実行する前に頓挫し。なにもかも前進しない。


僕は政治学をやっているのでこの手の話はどうしても政治学の側面から見てしまう。いわゆる、「公」と「私」の関係では二つのアプローチがあって、一つは、公は個人の活動を邪魔しない、という消極的な側面があるのだ。言論弾圧とか、思想統制とかは、してはならない。もう一つ、公は個人の要求をできるだけ聞かなければならないという積極的側面。社会福祉などがそれ。少なくとも役所は個人の活動を邪魔してはならないし、個人から届出があったときは自ら動いて対処しなきゃならない。それが近代における「公(おおやけ)」だ。


じゃあ、城はどちらの機能を果たしていないかといえば、どちらも、やっていないのだ。やっていないというのは正確じゃないかな?つまり、城はKと一切関係していない、ということ。


別に、Kが村に滞在して何やかんややることを阻害してはいない。同時に、金に困ったKに救いを出すこともない。Kが臨時で学校の雑用に雇われたのは、教師によれば村長の「善意」である。この辺は現代にも通じるところがある。システムとして福祉が充実していても、それが活用されるかどうかは結局のところ人の意思によりけりだと思うのだ。生活保護という制度があっても、それを利用するまでには煩雑な手続きが必要で、住居がなかったら受け取れない、という事態も昨年から頻繁に起こっている。「年越し派遣村」という善意に頼らなければ、生き残れない人たちがいる。最近は、第二のセーフティネットなど対策がとられているけれど、まだ整備が行き届いているとは言いがたい。


個人は、ひどくもろい。小説中でKが陥っている苦境は、城が何もしないことに起因している。「何もしない」それこそが役所の傲慢であり、そうした傲慢が個人を殺すのは実に簡単なことなのだ。


mixiに普段書くようなことをこっちに垂れ流してしまいました。申し訳ない。