お疲れ様です、静謐です。
少しばかり嫌なことがあり、気分が少々アンニュイなのですが、書きたいことがあったので書きます。
先に断っておきますが、ここから書く内容は死生観や、一部宗教的問題を取り扱うものです。
ですが私は特定の人物、団体等を侮辱する意図があるわけではないということをご理解いただく思います。
またテーマがかなり重めですが、決して鬱アピールや病みアピールをしたいわけでもなく(そういった“ファッション”で精神的苦痛を装う行為は、私が嫌悪するものでもあります)、単に一個人の意見ということで受け取ってもらいたいです。
むろん、精神的苦痛から来る疾患や症状を患っている方を否定するわけではなく、構って欲しいから、見て欲しいからという理由でそういったことを装う行為が嫌いなだけですので、ご理解のほどお願いいたします。
先に嫌なこと、というものに軽く触れておきたいと思います。
詳細に書くとプライバシー的な問題が出てきますので、かいつまんでお話しいたします。
嫌なこと、というのは、友人関係でのいざこざです。
原因は私にあるにしろ、二対一になり一方的に責め立てられ、罰等を負わせられたというような感じでした。
私も物申したい所は多々あるのですが、問題を大事にするのはそんなに好きじゃないので、私が悪者ということで収まりました。
…が、私はそこまでメンタルが強くない、というか豆腐なので、かなり後味が悪くて不快感を覚えている、という次第です。
確かに私にも非はありましたが…、という感じです、友人関係って難しいんですよね。
このいざこざがあって、今日書く「生きるとは」ということについて元々考えていた意見を思い出した、という感じです。
眠い目をこすりながら、頑張って書いていこうと思います。
まず、皆様に質問したいのが。
「生きる意味とは、何だと思いますか?」
ということです。
──そもそもこの質問は大分抽象的で、回答させる気が無いようにも思えますが、考えてみて欲しいのです。
恐らく、多くの方がピンと来なかったはずです。
生きるって、なんなんだろうか。
迷ってしまうということは即ち、自分の意思とは関係ないということになります。
もし自分の意思で生死がコントロールできたら、確かに欲求等を満たせるので意味が見出せそうですよね。
でもそうじゃない。
都合がいいときに生きて、都合が悪いときに死ぬ、というのができない、それが「生きる」ということです。
言ってしまえば、生きるという事象を、我々は随分事務的にこなしているようですね。
生きる、ということを常時そこに存在する、常設的な、当然である事象だと解釈している。
だからそこに「意味」を見出せない。だって、あって普通なのだから。
いつか我々の意識範囲内で喪失してしまう消耗品、というわけでもない。
もちろん死を迎えるときには消耗しますが、それは我々の意識範囲内ではありません。
簡単に言うなら、死んだ、と完全に認識することなく突発的に死を迎えるのです。
だから、「生きる」ことの喪失と自身の喪失は、必ず同時なわけです。
むろん、私も生きる意味は見出せません。
何ならこうも言えます。
「生きることには、本質的な意味が無い。」
だって生きることには、我々の意思がないのだから。
例えば私が八百屋に行ったとしましょう。
その意味は?と聞かれたら、りんごを買いに行ったから、という本質的な意味、言い換えるなら理由が言えます。
では生きることに変換しましょう。
言葉を変えて、生きる理由は?と聞かれても、ピンときません。
それはなぜか?
我々が望んでやっていることではないからです。
つまり、「生きること」=『生かされている』ということが言えたりもします。
その『生かされている』という無意味な器の中で、我々は意味を持たせるため生活する。
しかしそこで得た意味は、結局生活の結果でしかない。喩えるなら、器の中の白飯でしかない。
器は、結局入れ物としてしか機能できない。
その入れ物が「生きること」というわけです。
ですが「無意味なら…」と言ってネガティヴになるのでなく、「無意味だからこそ」という感じで生きれたら楽なんじゃないでしょうか。
もちろん無責任に生きろ、なんて言いません。
ですが、無意味だからこそ意味を持たせようとすれば、多少人生に色はつくと思います。
結局無意味なんだから、なんでもいい。
自分のやりたいようにやる。恐らくそういう感じです。
私の読んでいるラノベのキャラの言葉を借りるなら、
「世界は勝手に回っている」
ということです。
別にその回転に加わろうと、加わらなかろうと、個人の自由だと、私は思います。