みまかるというのです。
死を迎え入れなさったのだ、とわたしにはよくわかりました。そうならなくてはさとる子さまが私のところにお出でになるわけはありませんからね。
「悔しいのだ」
お泣きなさいました。
それは、もう。どんなにかお泣きになったと。あなた、分かりますか。どれほどお辛いことであったかと。
「悔しいのだ」
さとる子さまの霊がそう言って私の軒先でお泣きなさるのです。おあがりくださいませ。と、いうことができませんでした。中宮様たるお方を、わたしの畳にお上げすることはできないのです。ただ、お泣きなさっておられました。お目のものがおすがたをたどってひたひた地面を濡らしていたのです。さとる子さまがいらっしゃる場所だけが、夜の日を浴びてしらしら光っておりました。
「一度。」
そう言って、あのお方はくず折れておしまいになった。一度、一度。と。声を散らせて嘆いていらっしゃった。
「一度でございますか。何をなさりたかったのですか。何に」
私はつい声をかけてしまいました。お屋敷にいらっしゃった頃にも、わたしなどがお声をおかけしてなるお方ではないのです。そんな無礼を働いてはいけないのです。おすがたがこの世にあるだけで、ありがたいお方だったのです。
「一度でよかったのだ」
さとる子さまの霊がお顔を御上げなさいました。
「何がでございますか」
ああ、わたしは、それで死のうと思ったのです。
「一度でいい。一夜でいいから。人に愛されて居りたかったのだ」
人に愛されて。
ああ、このお方が、一体誰の愛を欲していらっしゃったのかと。だから私はこうして迷って出るのです。こうして、書き取ってほしくて出るのです。書き留めてください。私の中宮様のお話を、あなたが書き留めてくださいませ。
※※※※
後、霊はうらうら泣いているだけだった。だからこの先は書かない。書き留めてくれと言われてそのままを書いては、書き手として無様ということなのだ。
書き残すべきものは書き取る。しかし、残してはいけないものを書いてはいけないのだ。その区別がつくようで、人間もやっと半人前と言ったところ、そう思う。
霊は屋根に降りてきては書いてくれ書いてくれと言ってせがむんだ。しかしどいつもこいつも、本当に必要な話はしやがらない。どうも人の霊には歯が生えているらしい。肉をなくしても歯は残る。魂は天に上るが魄は地に落ちる。魄とはつまり歯なのだな。未練は晴れるだろう、恨みは消えるだろう。文字になる物事は消すことができるだろう。
消すことのできないものは、文字にもならない。形にもならない。末法の世まで、その時のままで狂い続けているのだろう。だから書いてはいけないのだ。
了