40年生きましたから。もうこの先は余生でいいといたしましょうや。
こんばんは。
読んでくださる方がまだおられるかな。森本湧水です。生きております。
相変わらず飲んだくれながら、それでも世界の生き越しを考えたつもりになって、なにか書いておこうと思って、こうして手を使っているのに、
このページを開いたら、親しくしてくださった方の述懐がなつかしいので、つい、ね。
何も考えられなくなります。
でもそれはいいことなのだ。
何も考えずに、二度と無い思考を私は無明に断ずるのだ。
それでも、私は、
書こうと思います。書こうとすることはもうやめようと思っていましたから。
まあ、その。実に、意味がないんです。私は描くことをお金に変えたいと思って書き始めて、一方でそれは成功してありがたく忙しくなりましたけど。
一方ではだいっしっぱいして、ゴミの山を築いています。(芥川とはよくいったもんだ)
だから、もう。
ことばことばするのはやめておかねおかねして生きていこうと思ったんですが、現状ここに、居りますね。
結局私は言語、というのがたいへん好きなんです。
言語がもし、汚いのだとしたら、それは使う人間が汚いのだ
(わたしのまえに美しく言葉を設えてくださったかたはすでにさった)
本来なら美しく面白いはずの言葉が、薄汚くつまらないものにまみれて肥満して死んでいくのも、それはそれで、よい。
というかよしあしをどうこうする権利は私にはない、もはや権利、と言ってしまおう。
だいぶ脱線しましたが、
40歳になりましたし、もう死ぬんです、私は。
というか死なねばならぬ、でなくても、生存の限界をいしきしなきくてはならない。
だからこそ、
死ぬまで生きる
という、わたしにとって画期的な論調に今出あっています。いや。死んだ気になって生きるひともそれが嫌で死ぬひともよおございます。ほんとうは、死ぬに決まっているの、その瞬間までいきるひつようなんてさっぱりない。
無いならないで、なんとでもしよう。怨嗟の声が街道を満たさないならそれに絶望するところから始めよう。
私はもう、いい。
できる限りの好運は享受した。幸いひとは殺さなかった。
で、
、も。
まだ書いてみたいんです。誰も読まないし、誰からもいとわれないのを幸福と介するなら。
まだ書いてみたいことがある。
なんて。
ああ、私にとってこのページは糸を張った胴体。好きにかき鳴らせと焦らされる。
結局しぬまで馬鹿は馬鹿のまんまで、ばかばかしいことを、それでも書いていくんでしょう。
しょがねえな。