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       仏教宗派

 (浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗)

 

     

 

             浄土真宗 

                       

浄土真宗とは、浄土宗の開祖である法然の弟子親鸞が始めた浄土教の一派です。

 阿弥陀仏の力で万人が救済されるという絶対他力の教えで、信心があれば、往生すればすぐに成仏できるという考え方です。

そのため、授戒や引導などがありません。

帰敬式といって、生前に仏弟子となった証しとして、おかみそりを行い、戒名ではなく法名をもらうことで帰依します。

 浄土真宗の信者を門徒と呼びます。

浄土真宗は僧侶に肉食妻帯が許されています。

明治期までは、妻帯が許されている唯一の仏教宗派でした。

 浄土真宗は庶民を中心に広がった宗派で、明治の廃仏毀釈の影響をあまり受けずに今日に至っています。

 浄土真宗には、本願寺派、大谷派、高田派など十派に分かれていて、国内では最も多くの寺院、信者がいるとも言われています。

浄土真宗本願寺派は、中でも一番規模が大きく、門徒数は700万人もおよびます。

真宗大谷派550万人と併せて浄土真宗の二大勢力となっています。

また、浄土真宗全体では、18,880寺1240万人以上もの人が信者であることから日本で最大の規模を誇る仏教宗旨としても知られています。

 

浄土真宗 東本願寺と西本願寺の違い 

基本的には西本願寺は豊臣秀吉が創りました。
そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。
西本願寺の本山は龍谷山本願寺
東本願寺の本山は真宗本廟

 

                            東西分裂の歴史
戦国時代、信長との石山合戦一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。
秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが
真宗大谷派の始まりです。
この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです。
慶長7年教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。
このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。
本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。
初代の親鸞から十一代の門主 「顕如(けんにょ)」までは東西本願寺は同じ宗派
でしたが西の十二代目が「准如(じゅんにょ)」、東の十二代目が「教如(きょうにょ)」と分裂してしまいます。
教義の原点はまったく同じです、なぜなら相続争いで別れる前、つまり十一代目までは
同じなのですから。
ただ、分かれてからは、作法や声明、仏具や荘厳はそれぞれ違う流れになって行きます。
南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派
では「なむあみだぶつ」と唱えます。

 

                            時宗 

                                           

一遍上人の開創した、鎌倉新仏教の宗派の一つ。

宗派としては時宗と呼ばれ、その構成員は自らを時衆と称した。

時衆の宗教儀礼である踊り念仏は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。

 時衆の特徴は

①宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、

②開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。

その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。

中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。

一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。

一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。

彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった。
一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった。

戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。

この際に催された大念仏踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機なったと考えられる。

 

                             臨済宗

 

                                                 

 臨済宗は、中国の禅宗五家臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼の1つで日本仏教においては禅宗臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ,鎌倉仏教のひとつです。

中国禅宗の祖とされる達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である南嶽懐譲から、

馬祖道一百丈懐海、黄檗希運と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄によって創宗された。

彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。

宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚の論争以来、曹洞宗「黙照禅」に対して公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。

日本には栄西以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。

黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。

歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。

江戸時代の白隠慧鶴が中興の祖として知られる。

 

                                                   曹洞宗

 

                                    

曹洞宗は、禅宗の一つです。

鎌倉時代に道元が中国から日本へ伝えました。

本山は、福井県の永平寺と横浜市の総持寺です。

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。
専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とする。

 

             日蓮宗

 

               

 

日蓮宗とは、鎌倉時代に日蓮によって始まった仏教の一派です。

 妙法蓮華経を唱えるので、日蓮法華宗とも言われています。

 日本人の宗祖の名前が宗派名になっているのは、日蓮の日蓮宗のみです。

南無妙法蓮華経の七文字は、本仏の声そのものという考え方です。

 日蓮入滅の日のお祭りは、お会式(おえしき)と呼ばれています。

日蓮宗の仏壇では、中央の本尊には、日蓮聖人や、三宝尊のいずれかを祀ることが多く、右に鬼子母神、左に釈迦牟尼仏や大黒天を祀ります。

日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである 法華経をよりどころにする宗派です。

 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人宗祖と仰いでおります。
 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人のしあわせにつながる事を確信できる教えであります.

身延山久遠寺は、日蓮聖人により1274年に創建された、日蓮宗の総本山です。

日蓮聖人が晩年の8ヵ年をすごされた身延山は、宗祖棲神の地と呼ばれ、私たちの尊崇を集める最大の聖地です。

そして、全国各地にある日蓮宗の寺院を包括している宗務院は、日蓮聖人が教えを私たちに託し、ご生涯を閉じられた聖跡である東京池上にあります。

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