仕事の流儀 | Bunbunのブログ

Bunbunのブログ

ブログの説明を入力します。

先日、プロフェショナル“仕事の流儀”で、小倉智昭 74歳の「人生の引き際」を放映していた。74歳と言えば、私は70歳であるから、それ程の大きな違いはない。番組の最後のテロップで、“老兵は終わらず”と書いていたので考えさせられた番組であった。

なぜ考えさせられたかというと、65歳以上が前期高齢者であるから、私も高齢者に仲間入りしているからである。サムエル・ウルマンの“青春”の詩ではないが、歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失うときに初めて老いるのである。心の青春だけは、持ち続けたいものである。

私は、76歳の方を「十勝観光大使」に推薦したが、その時、選考の責任者に“年齢がいった人”ですねと言われた。十勝観光大使の方は、確かに歳は取っているが、誰よりも青春を失ってはいない。日本で一番寒いと言われる陸別町に入植した“関寛斎翁”は72歳の時であったので、十勝観光大使の方はまだ歳も若い。参考までに、サムエル・ウルマンの詩と関寛斎についての説明文を載せよう。

“青春”
(サムエル・ウルマン 作山宗久 訳) 
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を云う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、
驚異に惹かれる心、おさなごのような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の
霊感をうける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ
悲嘆の氷に閉ざされるとき、
20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと人は青春にして已む。

「十勝の活性化を考える会」会員T

注)関寛斎について

1830年(文政13年)、上総国山辺郡中村(千葉県東金市)吉井佐兵衛の長男として生まれる。 儒者関俊輔の養子となり、佐倉の佐藤泰然の門下に入り、医学を修業する。銚子で開業したが浜口梧陵の勧めにより長崎のポンペのもとで西洋医学を修得する。
  その後、徳島藩より招かれて侍医となるが、戊辰の役では奥羽出張病院頭取として活躍、徳島医学校の創設などに力を注ぐ。一時海軍病院に努め、山梨県立病院第2代院長として業績を上げるが、徳島県に帰ってからは禄籍ともに奉還し東御殿跡(徳島町1丁目現在の城東高等学校)で開業して、地域医療につくし、関医院にいたる道は徳島人から関の小路と称されていた。
 寛斎夫妻金婚の祝賀を受けた後に日本の産業発展のために必要な地として注目された北海道の開拓を志した。その時すでに年齢70歳、四男又一は札幌農学校に在学。石狩樽川農場を開拓し、更に奥地である十勝国斗満の地に入植したのは、1902年(明治35年)、72歳の高齢である。
二宮尊親が経営する二宮農場の自作農育成に開拓の方針を求め積善社を結社した。また徳富蘆花との交友を深め、トルストイの思想に共鳴と理想的農村建設をめざしたが、子餘作、又一に志を托してみずからそのいのちを絶つ、82歳の秋だった。 (情報元:陸別町ホームページより)