「耳なし芳一」を見てきた | 外山文治 生活の設計 Design for living

「耳なし芳一」を見てきた

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先日、神奈川芸術劇場にて「耳なし芳一」を観劇してきた。

私には宮本亜門演出作品を見る度に抱く感覚があって、それは「蓋が開いている」という感覚。
想像力が解放されているといえば伝わるだろうか……私は感覚的な表現しかできない系の人間らしいので、言葉に変えると非常に粗末な代物になるが、宮本亜門作品には想像を創造することに対しての「重力」というものが感じられないのである。
今、書店では村上春樹の新作が話題を独占しているが、彼の文章に対してハルキストが「そうそう、これこれ」と感じる意識に近い意味合いでの「そうそう、これこれ」感があって、つまりそれが客席で感じる「蓋が開いてんなー」という感情なのである。作品そのものへの評価とは別の種類での「あー、この人の作品だー」という感じって、ある。ちなみに三谷幸喜作品の台詞の掛け合いの中で「なんだかなー」という独り言が出てきた際にも、「あー、三谷作品だー」と感じるわけだが、冷静になって考えるとこれはセリフ上の癖というだけで、というかそろそろ話しが進まないので、この辺で話しを変える。

「耳なし芳一」は演劇と映像の融合が非常に美しく(映像はポーランドのクリエイターさんが手掛けているそうです)そのうちのいくつかの描写は、私にとってはかつてウォシャウスキーのマトリックスをはじめて見た時のような「わお!」という新感覚の興奮と驚きに満ちていて、客席で何度も唸ってしまった。

しかしながら、それら表現は、作品全体におけるウリではなくて、日本文学「耳なし芳一」という題材を正面から、限りなく美しく、静かに、重厚に、奇をてらわず真面目に対峙して描いているのだから、感動するし、これはもう良い意味で閉口するしかない。

昨年、おしゃれタウン・赤坂で三島由紀夫文学を斬新な切り口で発信していた時も、時代性というか今日性を存分に意識させながら、同時に、もしかして笑顔で社会を強烈にアジテートしているんじゃなかろうかと唸って閉口したわけだが、私としては今回もまた似た思いを抱いたわけである。

一昨年くらいから、可能な限り作品に足を運び、そのほとんどはアフター・トークのある回に合わせてチケットを取っているのだが、「3・11以降」というフレーズと「時代に合っている」という言葉を御本人はけっこうな確率で仰られているように思う。
しかしそれは、決して現在の観客に対しての適応というか、寄り添いや導きではなくて、案外、挑発者としての一面が潜んでるんじゃないだろうかと思いつつ、しかし蜷川さんのように「そうだ、皆さんに冷水をかけて目を覚ましてやろうかな」という悪戯っ子系のエッジびんびんアジテーターではないので、その真偽は定かではない。

私は評論家ではないので、今回の洞察に、正確さはなく、もはや戯言でしかない。
舞台は21日までKAATでやっているので、行ける人は行った方がいいと思う。
とりわけ、若いクリエイターは見た方がいいんじゃないかなと思う。

かつて映画学生だった私は、授業で教師にビデオカメラを手渡され、面白いものを撮ってこいと言われた。「ビデオ放り投げてみたら、面白い映像になるかもしれないよね」とも言われた。
私はビデオを壊すわけにもいかないので、とりあえずそんな助言は無視して、好きなものをテーマに短編を撮った。多くの敏感な学生達は世の中に不満があったり、イデオロギーをぶつけあったり、若きエネルギーを持て余した作品を撮ってきたが、私は分岐点に立った女性の元に小学生の自分が生きるヒントを与えにくるという、想ひ出ぽろぽろをボロボロにしたような映画を撮った。たいしてクラスメイトの共感を得られなかったが、先生は褒めてくれた。
だけどこれは、私にとって、淡い青春の1ページではない。
あの時、もしカメラを放り投げることができていれば……そう思わずにはいられない。
そうすれば、もしかしたら私も、想像力の蓋を思いのままに操れる種類の人間になれたかもしれないのに。ちくしょう。

ということで、「耳なし芳一」、おススメです。