題名:Folklor Jawa(『ジャワのフォークロア』)
著者:Purwadi
出版社:Pura Pustaka Yogyakarta (2009年)


$インドネシアを読む-folklor

ジャワの民俗についての本。研究書というよりは解説書です。
民俗学研究の専門誌などには、こういう分野の著述もたくさんあるのでしょうが、普通の書店ではこの手の本は意外と見つからないような気がします。

それでさっそく買ってみたのですが、中身の半分以上はジャワ語で書かれていました。

内容は以下のとおり。
1. 妖怪、精霊など異界の者たちについて(インドネシア語+ジャワ語)
2. 古典ワヤン(ジャワ語)
3. 神々、英雄について(ジャワ語)
4. 俗謡(ジャワ語)
5. マントラ(ジャワ語)
6. 金言、ことわざ(ジャワ語、イ訳・英訳つき)
7. 予言と占星術(インドネシア語)
8. 教訓(インドネシア語)
9. 舞踊と音楽(インドネシア語)
10. 儀礼(ジャワ語)

残念ならが私はジャワ語が読めないので、内容の半分以上がわからずじまい。歌謡のテクストなどがジャワ語で
あるのは当然(でもインドネシア語訳もほしい)としても、解説はインドネシア語で書いてほしかったなあと思います。

ジャワ語でしか語り得ないこともあるのかもしれませんが、ならば全部ジャワ語で、というなら納得できるんです
けど、たとえば1. なんて解説の途中からジャワ語になってしまって、あれあれという感じでした。ジャワの民俗について読みたいなら、まずはジャワ語を勉強しろということでしょうか。

さて、半分以下しか読めなかったくせにあれこれいうのもなんですが、なんだかこうとりとめがないというか…。
本来、とても興味深い内容であるはずなのですが。なんか印象に残らない。ジャワ語で書かれていた部分は、
もしかすると精彩のあるすばらしいものなのかもしれないけれど。

インドネシアのノンフィクションやこういう学術関係のものを読んだ後、そういうとりとめのない感じを抱くことがまま
あります。私の語学力不足のせいでもあるでしょう。でも、なんというか、求心力が弱いというか…。

日本で民俗学といえば、やはり柳田國男。その『遠野物語』を三島由紀夫が絶賛したのは、よく知られるところです。

あいにく『遠野物語』が手元にないので、三島の「小説とは何か」からの孫引きですが、第二十二話、ある老女が
亡くなって、通夜をしているところにその死んだ老女がやってくる場面。

「…(老女が)炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。」

この部分を引いて、三島はこう書いています。

この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しうしたのは、「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なれば
くるくるとまわりたり」という件りである。
 ここがこの短かい怪異譚の焦点であり、日常性と怪異との疑いようのない接点である。…(中略)…炭取りはいわば現実の転位の蝶番のようなもので、この蝶番がなければ、われわれはせいぜい「現実と超現実の併存状態」までしか到達することができない。それから先へもう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が廻らなければならないのである。しかもこの効果が、一にかかって「言葉」に在る、とは、愕くべきことである。
  (三島由紀夫「小説とは何か」 『三島由紀夫集 雛の宿―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)』 P.336 – 338)

学術文の中に「小説がある」必要はないのかもしれません。それでも、ノンフィクションや学術関係のものを読んで
いるときも、つい、はっとする部分、膝を打ちたくなる部分、「炭取りがくるくるまわる」部分の出現を期待してしまいます。

小説家でなくても、もっと言葉を遣うことに、文章を書くことに意識的になって、読ませる論文を書くべきではないか、と思うのです。こんな駄文を書きながら、エラそうに言うのもなんですけど。

もしかすると、インドネシアではインドネシア語教育がずいぶん軽視されているのではないでしょうか。

たとえば高校では2年生から進路別にクラスが分かれます。公立高では、理系(IPA)、社会科学系(IPS)、人文科学というか語学・文学系(Bahasa)の三コース。最後のBahasaコースは毎年希望者がたいへん少なく、あまりにも少ないと開講されずに、希望者はIPSに入れられることもあるそうです。

なぜそんなに希望者が少ないかというと、「Bahasaは落ちこぼれ」というイメージが流布しているから。日本でも、
理系は「頭がいい」というイメージがありますよね? インドネシアでも同じで、成績はいいんだけど理数系はどうしても苦手という人は、IPSを選んで、大学では経済学部とかそういうところへ行こうとするわけです。

語学や文学が好きで、そういう勉強をしたいと思っている子にとっては肩身の狭いシステムなわけで、きっとそういう自分のほんとうの興味を殺してでもIPSの方を希望してしまう子も少なくないのでしょう。

たしかに文学なんてなんの役にも立たないものかもしれません。(それなら大学で経済学を学ぶことはたいへん役に立つのか?というと、かなり疑問であるような気もしますけど。)それでもこのインドネシア語教育軽視はゆゆしき問題なのではないか、と偉そうに思ってみたりするわけです。


題名:Jangan Investasi Emas sebelum Baca Buku Ini!(『この本を読む前に金投資はするな!』)
著者:Joko Salim
出版社:Visimedia (2010年)



$インドネシアを読む-investasi emas



東日本大震災で被災された方々、二次被害を受けられた方々に心からお見舞い申し上げます。

で、こんなご時世になんですが、今回は金投資の話です。

インドネシアでも書店に行くと「いかにして儲けるか」をテーマにしたビジネス書がずらずら並んでいるのですが、
これもそんな中の一冊。著者は中部ジャワ州マグラン出身の中国系インドネシア人。

金融にはてんで疎く、株もやったことがないし、数字を見ると頭がまっしろになる私ですが、近頃ちょっぴり金投資に関心を持っておりまして。といっても、今のところ投資すべき元手がないので、実際に手を出すのはまだ先の話になりそうですが。

そんなズブの素人にもわかりやすく書いてある、なかなかありがたいガイドブックです。なにしろ投機なわけだから、必ずリスクが伴うということもちゃんと強調してありますし。

むずかしい金融用語の並ぶ抽象的な説明ではなく、どこで金を売買するか、手数料等がいくらぐらいか、利益率の計算の仕方などなどが具体的に書いてあります。各ページの左右の端に、ポイントになる部分が大きい活字で書き出してあるので、全文をていねいに読まなくてもだいたいわかるようになっているのも便利です。

インフレの激しい現在のインドネシアでは、長期にわたる場合は現金預金よりも金の方が確実かもしれません。土地のように売買に時間もかからず、巨額の税金もかからない。いつでも現金化できるし、担保にもできる。それに、世界的に金相場が下がったときは、ドルがルピアに対して値上がりするので、ルピアで投資している場合は価格があまり下がらずにすむとのこと。

なかなか魅力的な金投資ですが、日本のように銀行が純金積立のような至れり尽くせりの商品を用意してくれているのならともかく、インドネシアの金屋に買いに行ってもだまされるのがオチではないか? ……と思っていましたが、インドネシアでもイスラーム銀行やイスラーム質舗などに金投資のプログラムがあるそうです。手数料を払って売買の代行をしてもらうわけですから、金屋で直接買うより割高になりますが。

それでも銀行なら安心…ともいえないんですけどね。つい最近シティバンクで行員が顧客の口座から巨額のお金を着服していた事件が発覚したばかりだし。

ともあれ、インドネシアでの金相場のチェックと売買はまずここで。
PT. Aneka Tambang (ANTAM)
Unit Bisinis Pengolahan dan Pemurnian Logam Mulia
Jl. Pemuda No.1 – Jl. Raya Bekasi Km.18, Pulo Gadung, Jakarta 13210
Tel: 021-4757108
e-mail: lm@logammulia.com
http://www.logammulia.com

普通に売買するだけでなく、買った金をイスラーム質舗などで質に入れてお金を借り、そのお金でまた金を買い…ということを何回か繰り返し、金の価格が上がったら手元にある金を売り、そのお金で質入れした金を受け出してまたそれを売り…という具合にして財産を増やす「金畑(Kebun Emas)」テクなんてのもあるそうです。

それから、もちろん先物取引も。
http://www.marketiva.com/

でもこういうのは株と同じで、まめに相場をチェックして、抜け目なく計算高く取引しなければならないだろうから、
とても私の手には負えません。長期の定期預金代わりに金でも買っておくか、というところが精いっぱいでしょうか。
題名:Nibiru dan Kesatria Atlantis(『ニビルとアトランティスの戦士』)
著者:Tasaro GK
出版社:Tiga Serangkai (2010年)


インドネシアを読む-Nibiru

“Muhammad” の著者による「インドネシア初アトランティス・アクション・ファンタジー」です。

まず冒頭、本文が始まる前に、奇妙な言葉で書かれた文章とそのインドネシア語訳が載せてあり、Dhaca Suliなる者がアトランティス沈没最後の日に記す、と書かれています。その下には、それがKedhalu語で書かれた石碑の文であり、インドネシアのキドゥル山南境の干上がった湖の底から発見されたものだという注記。

こういう始まり方は大好きです。こういった捏造文書なんかがいかにももっともらしく掲げてあると、それだけで嬉しくなる。つかみはOKといったところです。

時代設定は大胆にも紀元前13,359年。場所は大陸から遠からぬ小島ケダール。

この島の特に北部の住民はpugabhaと呼ばれる神通力というか超能力に優れ、島は不可視の魔法の幕に守られてほぼ鎖国状態にあり、平和な日々が続いています。文明が進んで豊かな北部に比べ、南部は未開の地が多く、住民も貧しくて超能力を持つ者は少なく、いたとしてもその能力は低いのが一般的。

主人公のダーチャ(Dhaca)は南部の生まれながら、同年齢の3人の仲間とともに例外的に北部の超能力開発学校に通っているワルガキです。南部の子にしては珍しく超能力を持っているためにその学校に入れたのですが、成績ははかばかしくなく、初級クラスで留年3年目。

さて、その昔、世界を支配する有力な11人の王の連合があり、そのうちのひとりがケダール王国を開いたのです
が、王連合のメンバーのひとりニビル王の裏切りにより、連合は瓦解しました。ニビルは当時最強の王に滅ぼされますが、5013年ごとに復活して世界を混乱に陥れると言われています。そのニビル復活のときが近づき、平和な島にも不穏な出来事が続発しはじめます。

島を守る魔法の幕の力が弱まり、隣国である大陸の大国の残忍にして最強の王が、復活が予想されるニビルを潰すべく、ケダール住民の超能力を利用して自国の軍事力を強化しようと、ケダールに攻め寄せてくるかもしれない…。そういった危惧とともに、島内でも、王国を開いた偉大なる王の跡は数百年前に絶え、その後は執政のほぼ独裁下にあったのですが、それに対する住民たちの不満が次第に高まり、島は内部・外部からの危機に直面することになります。

そんなとき、ダーチャは自分の思いがけない出生の秘密を知ることになり…。

といった冒険活劇ファンタジーです。これ1冊でも700ページ弱あるのですが、もちろんこれだけでは終わらず、
いったい何巻続くのか知らないけれど、すでに2巻の予告も打たれています。

インドネシア製ファンタジーということで、まあどうせハリー・ポッターのモノマネなんじゃないかと実はあまり期待していなかったのですが、これがなかなかおもしろく、一気に読めました。

伏線の張り方がもうひと工夫ほしかったと思うところや、肝心のところで誤植というか登場人物の名前を取り違えていて、編集者はなにしてたんだ!と言いたくなるところもありますが、楽しい読み物といっていいと思います。

意外な展開を意図したんだなあというのがよくわかり、何重ものどんでん返しが用意されていて、著者の意欲がひしひしと伝わってきます。

題名にしてからがそうですね。『ニビルと○○○○』のスタイルで全シリーズいくようですが、ニビルというのはハリー・ポッターのように主人公の名前じゃなくて、最大の脅威である敵の名前なわけで。なぜそれがタイトル名になっているのかは、この1巻の最後で明らかとなります。

ところで、冒頭の石碑文はじめ登場人物名や地名などの固有名詞がhや子音が多用されていて読みづらく、憶えづらい。きわめつけはSaclbhajthajadhax なんてのも。どうやって発音するんでしょう? まあ、これは大陸から来た人の姓で、島の人々にとってもわかりにくいものということになっていますけど。

こういった細工は、できるだけかけ離れた世界を造り上げるための著者の工夫かと思われ、このケダール語はインドネシア語をもとに著者が創作した言語だそうです。要するに綴り方を変えたってことですが。

このケダール語を解読した人がいまして、その人の解釈によるとdhはr、cはj 等となり、主人公の名前 Dhaca Suli は Raja Bumi と読みかえられ、超能力pugabha は kuwasa / kuasa、ダーチャの母の遺品六曲で六つの石のはめこまれた剣 pedhib は keris となるとのこと。

そういった工夫の凝らされたファンタジー。2巻以降の展開に期待しましょう。途中でいつのまにやら消えてしまったりしないよう、完結を祈りましょう!