題名:Kafka on the Shore: Labirin Asmara Ibu dan Anak
著者:村上春樹 Dewi Wulansari訳
出版社:Pustaka Alvabet
発行年:2008年1月
![$インドネシアを読む-kafka ind-eng](https://stat.ameba.jp/user_images/20100817/17/bukuindonesia/0f/9b/j/t02200164_0542040310698705211.jpg?caw=800)
(インドネシア語版) (英語版)
インドネシアの本屋のコミック売り場では、日本のマンガのインドネシア語版が花盛り。
最近、マンガだけでなく文芸作品などでも、ずいぶん日本の作品の翻訳物を見かけるようになりました。ここ半年ほどの間に店頭で見かけただけでも、小説では司馬遼太郎『最後の将軍―徳川慶喜
』、吉川英治『新・平家物語
』、
芥川龍之介『河童
』、遠藤周作『沈黙
』など、実話物では天藤湘子『極道(ヤクザ)な月
』、木藤亜也『1リットルの涙
』などなど。
村上春樹の作品は、意外とまだあまり紹介されていません。インドネシア語訳が出版されているのは、今のところ
『ノルウェイの森
』とこの『海辺のカフカ
』ぐらいではないでしょうか。見落としているかもしれませんが。
こういった日本の作品の翻訳物の大半は英語版からの重訳のようです。村上春樹の作品も、『ノルウェイの森』は日本語から直接翻訳されていますが、『海辺のカフカ』は英語版から。
漢字という難物があることもあって、日本語を読むのはやはりハードルが高いということでしょうか。日本語から翻訳できる人よりも英語から翻訳できる人の方が圧倒的に多いでしょうし、英語版が出ているものの方がその本についての情報も得やすく、もしかすると版権も入手しやすいのかもしれません。
翻訳そのものも、構文の特徴を考えると、英語からインドネシア語へ訳す方がずっと容易なはずです。
しかし重訳には思わぬ危険が潜んでいたりもするようです。その例を、『海辺のカフカ』インドネシア語版をたたき台にして見てみましょう。
まず、重訳とは直接関係ありませんが、気になるのが副題 “Labirin Asmara Ibu dan Anak”(母と子の愛の迷宮)。このインドネシア語版が出た当初、評者の名前は失念してしまいましたが、中部ジャワの地方紙スアラ・ムルデカ紙に載った書評によると、この副題は余計ではないか、ということでした。
もっともだと思います。こんなふうに要約されてしまうと、ちょっと、うーんと言いたくなります。ついでに言うと、この表紙も村上氏はお気に召さないのではないかと危惧されますが…。
では、もしも日本語から直接翻訳されていれば、こんなことにはならなかったのに、という誤訳例をいくつか。
引用は以下の各書より。
(日)原書『海辺のカフカ
』上、下 新潮文庫
(英)英語版 “Kafka on the Shore
” Philip Gabriel 訳、Vintage Books, New York, 2005
(イ)インドネシア語版 前掲書
<例1>
(日)ナカタさんは地面から立ち上がって、草むらの中で立ち小便をした。とても長い律儀な排尿だった。
(上巻 P.174)
(英) He stood up and relieved himself in the weeds --- a long, honest pee --- (P. 89 - 90)
(イ)Dia bangkit dan membersihkan diri dari rumput --- yang panjang --- (P.105)
(彼は立ち上がって草を―――長いものを―――はらった)
長いのは草でなくて小便。”relieve ~self” の訳し間違い。
<例2>
(日)それは縦笛なのだろうか、横笛なのだろうか。(上巻 P.296)
(英)Was he talking about a flute you held sideways? Or maybe a recorder? (P. 149)
(イ)Apa yang dia maksud adalah seruling yang dia pegang pada kedua ujungnya? Atau mungkin sebuah
alat perekam? (P. 178)
(彼が言うのは、両端を持って吹く笛のことなのだろうか? それとも録音機なのだろうか?)
“a recorder”は「レコーダー」じゃなくて「リコーダー」ですね。たしかにスペルが同じなのでまぎらわしいですが、縦笛が「録音機」になってしまいました。
それから “seruling yang dia pegang pada kedua ujungnya” (両端を持って吹く笛)というのもよくわからない。
パン・フルートのようなものを思い浮かべてしまうのですが、インドネシアの方はどういうものをイメージするのでしょうか。
<例3>
(日)「イェーツの詩だ」と大島さんは言う。(上巻 P.431)
(英)Oshima nods. "Yeats." (P. 214)
(イ)Oshima mengangguk. "Ya." (P. 258)
(大島さんはうなずいた。「ああ」)
“Yeah”じゃなくて“Yeats”なんですが。
<例4>
(日)我慢強いくりかえしがわずかずつ現実の場を切り崩し、組みかえていく。(下巻 P. 343)
(英)The patient, repeating music ever so slowly breaks apart the real, rearranging the pieces. (p. 402)
(イ)Si pesakitan, seraya mengulangi musik yang perlahan-lahan menghancurkan kenyattan, menyusun kembali
potongan-potongan tersebut. (p. 489)
(罪人が緩やかな音楽を繰り返すように現実を破壊し、その破片を組み直していく。)
ここの “patient”は名詞じゃなくて形容詞ですね。
重訳ってむずかしいですね。
著者:村上春樹 Dewi Wulansari訳
出版社:Pustaka Alvabet
発行年:2008年1月
![$インドネシアを読む-kafka ind-eng](https://stat.ameba.jp/user_images/20100817/17/bukuindonesia/0f/9b/j/t02200164_0542040310698705211.jpg?caw=800)
(インドネシア語版) (英語版)
インドネシアの本屋のコミック売り場では、日本のマンガのインドネシア語版が花盛り。
最近、マンガだけでなく文芸作品などでも、ずいぶん日本の作品の翻訳物を見かけるようになりました。ここ半年ほどの間に店頭で見かけただけでも、小説では司馬遼太郎『最後の将軍―徳川慶喜
芥川龍之介『河童
村上春樹の作品は、意外とまだあまり紹介されていません。インドネシア語訳が出版されているのは、今のところ
『ノルウェイの森
こういった日本の作品の翻訳物の大半は英語版からの重訳のようです。村上春樹の作品も、『ノルウェイの森』は日本語から直接翻訳されていますが、『海辺のカフカ』は英語版から。
漢字という難物があることもあって、日本語を読むのはやはりハードルが高いということでしょうか。日本語から翻訳できる人よりも英語から翻訳できる人の方が圧倒的に多いでしょうし、英語版が出ているものの方がその本についての情報も得やすく、もしかすると版権も入手しやすいのかもしれません。
翻訳そのものも、構文の特徴を考えると、英語からインドネシア語へ訳す方がずっと容易なはずです。
しかし重訳には思わぬ危険が潜んでいたりもするようです。その例を、『海辺のカフカ』インドネシア語版をたたき台にして見てみましょう。
まず、重訳とは直接関係ありませんが、気になるのが副題 “Labirin Asmara Ibu dan Anak”(母と子の愛の迷宮)。このインドネシア語版が出た当初、評者の名前は失念してしまいましたが、中部ジャワの地方紙スアラ・ムルデカ紙に載った書評によると、この副題は余計ではないか、ということでした。
もっともだと思います。こんなふうに要約されてしまうと、ちょっと、うーんと言いたくなります。ついでに言うと、この表紙も村上氏はお気に召さないのではないかと危惧されますが…。
では、もしも日本語から直接翻訳されていれば、こんなことにはならなかったのに、という誤訳例をいくつか。
引用は以下の各書より。
(日)原書『海辺のカフカ
(英)英語版 “Kafka on the Shore
(イ)インドネシア語版 前掲書
<例1>
(日)ナカタさんは地面から立ち上がって、草むらの中で立ち小便をした。とても長い律儀な排尿だった。
(上巻 P.174)
(英) He stood up and relieved himself in the weeds --- a long, honest pee --- (P. 89 - 90)
(イ)Dia bangkit dan membersihkan diri dari rumput --- yang panjang --- (P.105)
(彼は立ち上がって草を―――長いものを―――はらった)
長いのは草でなくて小便。”relieve ~self” の訳し間違い。
<例2>
(日)それは縦笛なのだろうか、横笛なのだろうか。(上巻 P.296)
(英)Was he talking about a flute you held sideways? Or maybe a recorder? (P. 149)
(イ)Apa yang dia maksud adalah seruling yang dia pegang pada kedua ujungnya? Atau mungkin sebuah
alat perekam? (P. 178)
(彼が言うのは、両端を持って吹く笛のことなのだろうか? それとも録音機なのだろうか?)
“a recorder”は「レコーダー」じゃなくて「リコーダー」ですね。たしかにスペルが同じなのでまぎらわしいですが、縦笛が「録音機」になってしまいました。
それから “seruling yang dia pegang pada kedua ujungnya” (両端を持って吹く笛)というのもよくわからない。
パン・フルートのようなものを思い浮かべてしまうのですが、インドネシアの方はどういうものをイメージするのでしょうか。
<例3>
(日)「イェーツの詩だ」と大島さんは言う。(上巻 P.431)
(英)Oshima nods. "Yeats." (P. 214)
(イ)Oshima mengangguk. "Ya." (P. 258)
(大島さんはうなずいた。「ああ」)
“Yeah”じゃなくて“Yeats”なんですが。
<例4>
(日)我慢強いくりかえしがわずかずつ現実の場を切り崩し、組みかえていく。(下巻 P. 343)
(英)The patient, repeating music ever so slowly breaks apart the real, rearranging the pieces. (p. 402)
(イ)Si pesakitan, seraya mengulangi musik yang perlahan-lahan menghancurkan kenyattan, menyusun kembali
potongan-potongan tersebut. (p. 489)
(罪人が緩やかな音楽を繰り返すように現実を破壊し、その破片を組み直していく。)
ここの “patient”は名詞じゃなくて形容詞ですね。
重訳ってむずかしいですね。