存在の謎1
社会の「わかる」とは、これは何だろうね。ひたすら暗記して、いい点をとるしかないのかな。でも、歴史上の人物も事件も、今はどこにも目に見えるものとして存在してはいないのに、なぜそんなものが存在して、それがわかるものだと人は思っているのだろうか。歴史は、それを語る人の言葉としてしか存在していない。すると、歴史も世界も現実も、それを作っているのはやはり言葉なのではないだろうか。
英語、あるセンテンスの意味が「わかる」というのは、意味が言葉以前に人類に共通であるからに他ならないね。さて、人類に共通のその意味を、人類はいつどこで知ったのだろう。
こんなふうに考え始めると、勉強して、問題を解いて、わかった気になっていたようなことなんか、まるきりわかっていなかったということが、よくわかるだろう。いいかい、これは本当に念を押して言うけれども、「勉強する」ということと、「考える」ということは、必ずしも同じじゃない、ある部分では、見事に正反対のことがあるんだ。人は、自分がわかっていると思っていたことが、じつはまるでわかっていなかったということに気がつくからこそ、わかろうとして考え始めるのであって、それ以外に人がものを考え始める理由はない。わからないとわかるからこそ考えるのであって、わかっていると思っているなら、考えるはずがないじゃないか。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
わからないとわかるからこそ考えるのであって、わかっていると思っているなら、考えるはずがないじゃないか
確かにそうだ。
大変素朴なことだが、わかってると思ってることを人は、ことさら考えたりはしない。
「わかってる」ってどういうことだろう。
情報を得て何かを知って、それでわかったと思っていることが多い。
でもそれで「わかってる」ということになるのだろうか。
情報として知っているだけで、自分で考えてみたわけではない。
この情報が溢れている現代は、考える余地もないほど情報の渦のなかに飲み込まれていると言えそうだ。
考えるなんてことは、どこかへいってしまったみたいに。
~つづく~