存在の謎1

君は、学校で勉強して、勉強したことが身についたかどうかを調べるために、テストを受けるね。そして、ある問題が解けたか解けないかということが、それがわかったかわからないかということだとされているね。でも、「考える」ということ、考えてわかるということは、それとは少し違うことなんだ。勉強して、テストの問題が解けてわかるような「わかる」とは、少し違う「わかる」または「わからない」なんだ。
たとえば、国語の問題、文章の意味や著者の考えは、言葉を読んでわかったりわからなかったりするけれども、そもそもなぜ言葉を読んでわかったりわからなかったりするのかということは、よく考えればわからないことなのだったね。言葉がわかるということは、その意味がわかるということなのだけど、意味がわかる限り、意味は君の内にある。でも外の文章の内にもある。では、意味はどこに存在しているのだろう。これは、テストで模範解答を書いてわかったとするようなことではないわけだ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


「考える」ということ、考えてわかるということは、それとは少し違うこと

テストには解答がある。

正しいとされる答えがある。

答えがある問いと、答えがない問いがあるとしたら、「考えてわかる」ことに、正しい答えはないだろう。

考えてわかることは、お勉強とは違う次元のことだ。

だから、学校の勉強が得意でなくても、考えることは誰にでも等しくできることなのだ。

たった一つの正解なんてないのだから。

それなら、考えられるところまで考えてみたいとは思わないか?

~つづく~