人生の意味2
人生が存在することには、意味も理由もないと述べた。存在するということ自体が、意味も理由もない奇跡的な出来事だからだ。けれども、肉体をもって現実にこの人生を生きる限り、人はさまざまな出来事に出会い、そのつどの選択を迫られることになる。身近なところでは、学校に行こうか行くまいか、極端なところでは、相手を殺すか殺されるか、自覚してみれば、一瞬一瞬が自分の自由による選択なんだ。その時、人は、何を基準にその選択を為すだろう。自由を制限する社会も規則も、そして「神」も、存在してはいないとしたら、人は何を基準に自分の行為を選択すればいいのだろう。
自分の選択、それ以外に基準はない。したいことを為し、したくないことを為さないだけだ。よいことを為せば、よいことになり、悪いことを為せば、悪いことになる。何もかもが、思った通りになる。それなら、基準は明らかじゃないか。善悪という基準、価値の基準は、自分の中に、自分の心に、明らかに存在しているじゃないか。だから、人生を生きるための価値は、やっぱり明らかに存在しているんだ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
一瞬一瞬が自分の自由による選択
まさに!
善悪という基準、価値の基準は、自分の中に、自分の心に、明らかに存在している
善悪の章でも、それは確認した。
自覚的に生きる!
これに尽きるのではないか。
自分の自由で一瞬一瞬選択している。
この事実を自覚すること。
自分で選択しているということを自覚すること。
人から言われたから、誰かが言ってたからでなく、自分でそのことを考え、自分の考えにより、自分がそれを選択している自覚がなければ、よくないことが起きたときに、誰かや何かのせいにしてしまうのではないだろうか。
よいことを為せば、よいことになり、悪いことを為せば、悪いことになる。何もかもが、思った通りになる
これは、厳しくもあるが、素晴らしいことでもある。
思うのも自分、行為を為すのも他ならぬ自分だ。
何もかもが自分次第なのだから。
~つづく~