人生の意味2

むろんのこと、現代の科学は、こんな考え方は認めはしない。科学とっては、人間が生まれるということは、精子と卵子の結合であり、生まれた子供に自分という意識が宿るのはずっとあと、自由意志をもつのもその時からと決まっているからだ。なるほど、信仰を持たない人間にとっては、神様が人間の運命を決めているのではないのだから、これは一見人間の自由を尊重する考え方のようだ。しかし、裏返してみれば、これは完全な運命論なんだ。人がその性格や能力、顔かたちなのは、DNA、両親のDNAによって決定されているのだからどうしようもないと宣告しているからだ。それなら、どこに人間の自由など存在する余地があるだろう。
仮に、君の人生、君のあらゆる選択は、君のDNAによってすべて決定されているとしよう。それでも、なぜ君のDNAは、そのDNAとして決定されているのかという問いは残る。それを決めたのは「誰」、もしくは「何」なのか。
原点としての謎に戻ろう。君が君であるところのもともとの君は、誰でもない。何でもない。何でもないのだから、完全に自由だ。完全に自由であるところの君は、その自由によって、肉体をもってこの世に生まれることを選んだ。ある特定のDNAをもって生まれることを選んだんだ。だから、運命として決定されているDNAとは、君が君の自由で選んだものなんだ。さあ、運命と自由とは、どこが違うものであるだろう。運命と自由とはまったく同じもの、運命とは、自分の自由で創るものだとわかるだろう。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


圧巻な展開だ。

運命として決定されているDNAとは、君が君の自由で選んだものなんだ。さあ、運命と自由とは、どこが違うものであるだろう。運命と自由とはまったく同じもの、運命とは、自分の自由で創るものだ

運命と自由が、まったく同じもの?

運命とは、自分で創るもの?

最初に読んで驚いて、時が経つと忘れてしまい、改めて読んで、再び絶句して、自分で考えようとする。

私たちって、どこまでもどこまでも果てしなく思い込んでいるのかもしれない。

いや、子どもの頃は、思い込みなんてなかったはずだ。

人生とは、生きてゆくとは、数々の思い込み、思い込んでしまっていることを解きほぐしていくことではないだろうか、とまで思ってしまう。

もとのもとまで、たどっていくと、私たちは、何者でもなかった、ということ。

何か思い煩ったら、常にここに戻ってこよう。

何者でもなく、完全に自由なところから意志して、今ここにいる。

この世に来てからも、自分で運命を創っている。

何のせいにもできない。

となったら、潔く引き受けていこうではないか!という気概が出てくる。

~つづく~