人生の意味2

もし生まれることを自分で意志したのでなければ、人生が自由なものであるはずがない。そもそも生まれたくなかったのかもしれないのに、死ぬまでは生きてゆくわけだからね。生きているということ自体が、不自由なことであるはずだ。でも、本来は誰でもないところの自分は、誰でもないのだから、完全に自由で、生まれないことも、別の両親のところに生まれることも意志できたのかもしれない。なのに、現実には、ある特定の両親のところに生まれた。するとこれは、ひょっとしたら自由意志なのではないだろうか。君は君の自由意志で、その両親の下に生まれることを決めたのじゃないだろうか。
とはいえ、自分が生まれることを意志した覚えなんかある人は、まずいないよね。でも、自分が好きで決めたことなのに、それがうまくいかなくなると、そのことを忘れて、人のせいみたいにすることはあるだろ。好きで始めたお稽古ごとなんかがいやになってくると、難しいとか先生が悪いとか言って逃げようとするだろ。そんなふうに、生まれることも、本当は自分で意志しながら、意志したことを忘れているのかもしれないと考えることはできる。そして、好きで生まれたわけじゃない、あんな両親の下に生まれたのは運命だからしようがないって、生きることから逃げようとしてるのじゃないだろうか。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


本来は誰でもないところの自分は、誰でもないのだから、完全に自由で

そう、完全に自由。

完全に自由なはずなのに、事実、
ある特定の両親の下に生まれたのだ。

となると、もしかして、自分で選択してる?自分で決めてる?

生まれることも、本当は自分で意志しながら、意志したことを忘れているのかもしれないと考えることはできる

む、む、む…

何と、ここまで考えるのか!と舌を巻く。

しかし、そういうことが絶対ないか、と問われると、その可能性は否定できなくなる。

百歩譲ってこの両親の下に生まれてくることを意志したとしよう。

しかし、なぜよりによってこの両親の下に、と考えたとき、何かおおきな、それこそ人智を超えたものがはたらいているのではないか、と思わざるをえなくなるのも、ほんとうのところだ。

そして、この両親の下に生まれたことだけでなく、人生で遭遇するあらゆること、それは自分で意志したことなのか?

こんな苦しいことを意志するなんてあるのだろうか?

こんな辛い目に逢わなければならないなんて、そんなことを意志するものだろうか?

もし、あるのだとしたら、なぜ?

その意味を問わざるをえなくなる。

問わざるをえないそのことが、その苦しさや辛さを与えた何ものかが求めていることなのだろうか

問わざるをえなくなったことで、新たな境地とでも言うべきものが開けてくる可能性を期待されているのだろうか?

生きながらに生まれ変わる、そういう瞬間を授けられているのだろうか。

なぜ、にこたえてくれる存在はいるのだろうか。

ヒントを与えてくれる存在はいるのだろうか。

~つづく~