人生の意味1
右の考え方は(注1)、どちらも、「死ぬ」ということですべてが無に帰する、生きている間の努力も苦労も築き上げたものも、すべてが無に帰してしまう、だからそれが生きることの空しさの理由だと言っているのだけど、これはよく考えると、この考え方自体が成り立たないものであることがわかるはずだ。なぜなら、この考えは、「死ぬ」ということはすべてが無に帰することであると言っているのだから、まさにその理由により、死んだら、無に帰してしまって空しいと嘆いている自分もまた、無に帰して「ない」はずだからだ。「ない」自分が嘆くことはできない。「ない」自分は「ない」のだから、生きている自分とは関係がない。生きている自分が、死ぬことを理由に、生きる努力や苦労を空しいと言うことはできないはずだからだ。
さらに、そもそもの前提を疑っていないということで、この考え方の不徹底さもわかるだろう。ここまで一緒に考えてきた君なら、もうピンとくるよね。そう、「死ぬ」ということは、すべてが無に帰するということであるのかどうかという、あの重要な一点だ。無は「ない」のだから、死は「ない」、だから死を前提にして生きることはできないという真実だ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
注1;9/23の261の文章を受けている。
考える道筋を教えてもらっている。
「死ぬ」ということですべてが無に帰する
ということは、ないのだ、ということは理解できる。
「ない」自分は「ない」のだから、生きている自分とは関係がない。生きている自分が、死ぬことを理由に、生きる努力や苦労を空しいと言うことはできないはずだからだ。
ホント、そうなのですよね。
無は「ない」のだから、死は「ない」
そうそう、そうなのでした。
何気なく思ってしまうあれこれのこと、それ、ほんとうにそう?と自問自答して考えるようにすることが、何度も言うようだけれどほんとうに大事なことなのだ。
死を前提にして生きることはできないという真実
死を前提にして生きることはできない?
けれど、肉体が朽ちるという意味では確実に死ぬ。
肉体がなくなっても、考える自分は存在し続けるのか。
こればかりは、実際に肉体がなくなってみないとわからないことだから、いくら考えたってわからないことなのだ。
いずれにしても、あれこれ想像したり、考えたりする範疇を越えない。
ならば、そのようなことに頭を悩ませる必要はもともとないのではないか。
どうしても考えたり悩んでしまう人は、そうしたくてしているのではないだろうか。
だって、そうしないことも選択できるからだ。
~つづく~