宗教

そういう避けられない人々の心の動きに乗じて、いろんな新しい宗教が、現代になって日本にも現われるようになっている。「信じれば」、救われると、そういう宗教は誘う。信じれば、天国か来世かで「救われる」、きっと楽になりますよと、高いお金を要求したり、おかしな修行を課したりするんだ。これはまったく変だと思わないか。
天国や来世、死んだあとのことを語っているのは、今そこに生きている人間だ。生きている人が死んだあとのことを語っているんだ。でも、生きている人は生きているのだから、死んだあとのことは語れない。あくまでそれは、生きている人がそうだと「思う」、死んだあとのことだ。それが本当かどうかは、生きている限り誰にもわからない。わからない、うまく信じられないからこそ、人はその不安をお金を払うことで埋めようとするんだ。だって、それが本当だと信じられるのなら、どうしてお金を払ったり変な修行をしたりする必要があるだろう。逆に、本当でないかもしれないことを信じることによって、どうして救われることなんかできるだろう。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


全くおっしゃる通りですね、と言いたくなる。

わからない、うまく信じられないからこそ、人はその不安をお金を払うことで埋めようとする

不安を埋められるなら、お金だって何だって差し出してしまうのだろうか。

人の弱みにつけ込むようなことを、宗教がするものだろうか。

不安は人間に自分自身で判断するという行為をさせなくしてしまうものなのか。

その不安とは、では、いったい、どこにあるのだろう。

目の前にあるのだろうか。

自分の頭の中にしかないのではないだろうか。

不安に駆られた時こそ、何かにすがるのではなく、不安の出どころを考えてみた方がよいのではないだろうか。

といっても、人間の精神状態は不安定でとてもそんな悠長なことは言ってられない時もある。

だから、日頃から「考える」ことを習慣化しておけば、そんな時でも一歩踏みとどまることができるかもしれない、と思うのだけれど。

~つづく~