宗教

「信じる」ということは、いったいどういうことなのだろう。「私は神が存在すると信じる」と人が言う時、本当は神は存在するのだろうか、しないのだろうか。その人が信じたり信じなかったりに関係なく、ある人は信じるけど別の人は信じないにも関係なく、神は、事実として存在しているのだろうか。
物質が存在することは、信じる信じないではなく、誰もが事実として認めている。それは目に見えるし、実験や観察で証明が可能なものだから、誰にも疑いようのない事実なんだ。だけど、神は目に見える物質ではない。実験も観察もできるものではないから、その存在は証明のしようがない。だから、その存在は、信じる人は信じるし、信じない人は信じないということになってしまう。あるいは、信じたいのだけど信じられないということもある。目に見えるものしか存在しないと思っている人や、その人の苦しみがとても深い場合などだ。
でも、いずれであるにせよ、神というのは信じるか信じないかの問題にすぎないのだとしたら、そんな神はやっぱり存在しないのじゃないのだろうか。「信じる」ということは、存在しないものを存在すると、自分で無理に思い込むための、人間の側の勝手な都合なんじゃないだろうか。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


神というのは信じるか信じないかの問題にすぎないのだとしたら、そんな神はやっぱり存在しないのじゃないのだろうか。

爆弾発言?とも言えるようなかんじだが…

信じるか信じないかの問題にすぎないのなら、というところがミソだ。

神に限らず、どんなことにでも言えそうなことだ。

そうなってくると、「信じる」というのは、どういうことなのかが問題になってくる。

人は信じていることを、改めて「信じる」とは言わない気がする。当然だから。

あえて、「信じています」と言わなければならないような状況は、「ほんとうは信じられないのだけれど、信じたいと思います」という気持ちが奥に潜んでいないだろうか。

不確かだから、それを揺るぎないものにするため「信じる」という言葉を発するようにも思えてしまう。

存在しないものを存在すると、自分で無理に思い込むための、人間の側の勝手な都合

思い込んだ方が、自分にとってよいならば、人はそうするのだと思う。本能のようなものだろうか。

神や宗教に限らず、何事も人は自分の都合で勝手に思い込もうとする心理がはたらくのではないだろうか。

人間は「それは、ほんとうはどうなのか、どういうことなのか」を考えるよりも、自分のいいように考えたい生き物なのだろうか。

何がそうさせるのだろうか。

「信じる」という言葉により、信じられていない何かがあるということを匂わせることにならないだろうか。

~つづく~