善悪1

自分が殺されるのがイヤだから、人を殺すのはいけないとは言えないだろうか。でも、「イヤ」と「いけない」とは違うことだ。たとえば、人から叱られるのはイヤなことだけれども、人を叱るのはいけないことではないからだ。叱ってあげた方が、その人のためになるから叱ることが多い。だったら、殺してあげた方がその人のためになることもあると言うこともできることになる。
殺してあげた方が、大勢の人のためになる場合だってある。たとえば、大勢の人を殺すヒトラーのような殺人者だ。ああいう大悪人の場合でも、やはり殺すことはいけないことなのだろうか。ああいう人は、殺した方が、皆のためになるのじゃないだろうか。でも、だとすると、殺した方がいい人と、殺さないほうがいい人とを、どうやって区別しよう。生きていた方がいい人と、生きていてはいけない人との区別の仕方だ。誰がそれを決めるのだろう。
戦争という状況を考えれば、人を殺してはいけないはずがない。そこでは、できるだけたくさんの人を殺すことが、よいことなのだ。殺人は、よいこととして、国から奨励されているからだ。それなら、人を殺してはいけないというのは、戦争であるか平和であるか、時と場合によって違うだけのことで、いついかなる場合も絶対にいけないというわけではない。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


「イヤ」と「いけない」は、そうだ、違うことだ。


殺してあげた方が、大勢の人のためになる場合

殺した方がいい人と、殺さないほうがいい人とを、どうやって区別しよう。生きていた方がいい人と、生きていてはいけない人との区別の仕方

どんどん核心に迫ってくる。

誰が判断するのだ。

そもそも何をもって判断するのだ。

その判断は間違ってはいないのか。

絶対正しいと言えるのか。

人を殺すことがよいこととされる戦争とは、いったい何なのだろうか。

人を殺すことが、戦時中は奨励され、戦時中でなければ裁かれる。

時と場合によって、よいことが変わるなんてことがあっていいのだろうか。

~つづく~