歴史と人類

さあ、有史以来、あるいはそれ以前から、人類は、この地上で、何のために何をやってきたのだと君は考えるだろうか。人類史にとっての進歩とは何だろう。
人類史なんて僕には関係ないよ、僕は自分のために自分のやりたいことをやるだけさと言う君、そうだ、その通りだ。どの時代のどの人間も、すべての人間はそれぞれ自分のために自分のやりたいことをやってきただけだ。原始人も科学者もテロリストも、人類のことなんか思いもせずに、自分のやりたいことをやるだけだ。人類のことを思ったにしても、そう思いたい自分のためにやっているだけだ。しかし、それぞれの人が自分のために自分のやりたいことをやっているその結果が、まさにひとつのある時代、時代の精神というものを作りあげているのだから、自分と時代、人類の全体というものが、どうして関係ないことがあるだろう。それどころか、精神であるというまさにそのことにおいて、自分とは人類、人類の歴史そのものじゃないだろうか。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


自分を考えると、果ては人類、人類の歴史にまで話しは広がる。

なんと壮大なことか。

「自分とは人類、人類の歴史そのもの」

なんて考えたことはない。

しかし、一人一人やっていることが人類全体にまで波及する。

一人一人というのは、数で考えると微々たるものだけれど、その一人一人からしか物事は変わっていかないのも事実だ。

自分一人だけでも、やはり人生の歴史に連なる一人として、考える精神をはたらかせて堕落せず、生を全うしたい。

ほんとうに自分のためにやりたいことをやるのだったら、天に通じてないはずがない。

利害損得を抜きにしてどうしてもやりたいことがあるとき、自分のためだけを考えているのではなくなっているのではないだろうか。

本人にその自覚があるかどうかは別として。

自分と他人とは深いところでつながっているのだから、自分のやることが他人と時代と人類と関係がないことではないだろう。

とてもそんなふうには考えられないのだけれども。

しかし、人は何かしらの影響を及ぼし合う存在であるなら、やっぱり自分とは人類の歴史であるのか…と考えるとジーンとしてくる。

~つづく~