歴史と人類

でも、進歩したと勘違いして浮かれているのは、日本を含めた技術先進国ばかりで、取り残された国の人々の心には、憎しみが渦を巻いている。生命技術も情報革命にも無縁で、生きることすらままならない人生に、何のために生きるのかという問いはない。そのかわりに、神と正義のために生きるのだと強く思い込んだ人々によって行なわれる暴力、それがテロリズムだ。そして、それへの報復だ。憎しみと争いという、これも克服されるべき古くからの人類の課題も、まったく克服されていない、人類史とは、その面からみると、戦争、国家や民族の名のもとに為される戦争の歴史と言えるけれども、憎しみ争う人の心は少しも進歩していないということが、はっきりとわかるだろう。これも、精神によって考えるということを怠ってきたからに他ならない。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


精神によって考えるということを怠ってきた

ガツンと頭を殴られたような感じだ。

精神によって考えるというけれど、その精神とはいったい何だろう?

頭で考えるのではないのだ。

頭=脳だとしたら、精神は頭脳とは違う次元のもっと精妙な?はたらきを言うのだろうか。

頭をはたらかせて考えるのと、精神のはたらきによって考えるのと、どこが違うのだろうか。

頭は利害損得に敏感のような気がするが、精神はその利害損得に敏感なのはどうしてなのかを考える、といったようなものだろか。

ずいぶん前の「心はどこにある」の章に
精神のはたらきについて書いてあった。

移ろい変わる感じや思いについて、動かずに観察、分析して、そのことがどういうことなのかを考えて知るのが、精神というものの働きだ。

精神というもののはたらきについて考える。

また、精神によって考えるということをしなくなってきてしまったことにより人類の歴史が今こうなってしまっている、ということなんだろうか。

私たちは歴史の渦中におり、歴史を生きているということなんだろうか。

~つづく~