歴史と人類
何のために生きるのかと考えず、とにかく生きればいいのだと、人が思い込んでしまうことの最大の理由が、死だ。死への恐怖だ。しかしこれは、死とは何か、死ぬとはどういうことなのかを、考えていないから以外ではないとわかるだろう。これを考えるのが、精神だ。そのための精神なんだ。考えれば恐怖なんてなくなる。死とは何かと知るからだ。最先端技術の延命医療も、原始人と同じ死への恐怖によって発明されているのだから、人類は何が進歩したというのか、可笑しいと思わないか。
情報技術の日進月歩もただごとではない。とにかくついて行かないことには取り残されるという焦りに駆られて、世界中の人々が懸命に走っているんだ。でも、やっぱり可笑しいじゃないか。そういう人々だって、何のために走っているのか、自分ではわからずに走っているんだ。人生の意味や死への恐怖などが、自覚できていないから、そこから逃げようとそうやって走っているんだ。だから、人は、精神によって自分の行為を自覚することこそ必要なんだ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
精神によって自分の行為を自覚する
心に刻みたい言葉だ。
人間の恐怖、不安は詰まるところ、死への恐怖、不安なのだ。
死への恐怖を克服とまではいかなくとも、死、死ぬということを受け容れることができた精神は、潔く生を全うしてゆけるのではないだろうか。
現代は死が隠されている。
死は忌み嫌うものとなっている。
果たしてそうだろうか、と考えてみることも必要なのではないか。
人間も自然(の一部)であるのだから、肉体はいずれ滅んでしまうというのは、自然の摂理ではないだろうか。
自分が死ぬということの経験を語ってくれる人はいないから、自分が死ぬということがわからない。
人は、わからないものに不安や恐怖を抱く。
しかし、その不安や恐怖も自分がそう思って(思い込んで)いるだけで、ほんとうはどうなのか、ということは絶対にわからないことなのだ。
自分が死んでみて初めてわかるものであるかもしれない。
生きる、生き延びることを考えるならば、同じように死ぬとはどういうことか、死、死ぬことについても考えてみなくては片手落ちではないだろうか。
考えたくないことは考えないのもいいが、考えたくなくたって、人はいつか必ず死ぬのです。
ならば、考えておいた方がよいのでは?
と私は思うのです。
~つづく~